善福寺・福沢諭吉墓所2010/10/12 06:40

 慶應の綱町グラウンド裏の道から、古川に架かる細い橋を渡って、麻布善福 寺の福沢諭吉の墓所へ行った。 「福沢氏記念之碑」について質問が出るかと 思ったので、あらかじめ富田正文著『考証 福澤諭吉』上(岩波書店)冒頭の「一 福澤家のルーツを探る」の、碑文の全文が出ているところを、コピーしていっ て配った。 「福澤氏の先祖は必ず寒族の一小民なる可し」というそれを、司 馬遼太郎さんは「福沢のあかるさがよく出ていて、よい文章である」と『街道 をゆく』「中津・宇佐のみち」に書いている。

 上大崎の常光寺にあった福沢の墓所が、なぜ麻布の善福寺に移されたのかと いう質問が出た。 時間もなく、明確に答えられなかったので、『慶應義塾史事 典』の「福沢諭吉の長逝」「福沢公園」「福沢先生墓前祭」から、書いておく。  福沢諭吉は明治34(1901)年2月3日午後10時50分に三田の自邸で亡くな った。 塾監局前の福沢公園に、「福沢諭吉終焉之地」の碑がある。 葬儀は2 月8日午後1時から福沢家の菩提寺である麻布の浄土真宗本願寺派善福寺でと り行い、引き続き荏原郡大崎村の浄土宗本願寺墓地(のちの常光寺墓地)に埋 葬した。 葬儀は福沢の遺志に基づき質素を旨とし、あくまで福沢家の葬儀と してとり行い、塾葬とはしなかった。 元来福沢家は浄土真宗の門徒であるに もかかわらず、浄土宗の本願寺墓地に埋葬することになったのは、生前福沢が 眺望のよい本願寺墓地を散歩時に気に入り自ら選定したためといわれている。  昭和52(1977)年5月中旬、常光寺の墓所から発掘された屍蝋化した福沢 の遺体が、改めて荼毘に付されて善福寺に改葬された。 福沢家は、宗派が異 なり(常光寺は浄土宗、福沢家は浄土真宗)、菩提寺と墓所が別々なのは不自然 であり、墓所を菩提寺の善福寺に移葬した、のだそうだ。

 善福寺の墓所には、正面の「福澤諭吉 妻阿錦(おきん)之墓」と、右側の母 上「福澤百助之妻阿順之墓」の他に、右手前に小さな墓石があった。 これは 何かと訊かれたが、分からなかった。 宿題にさせてもらった。