自らの偶像化を嫌う福沢 ― 2011/06/24 06:40
18日の土曜日は、「三田の慶應義塾を歩く」という福澤諭吉協会の一日史蹟 見学会に、家内と参加させてもらった。 4月に建替られた南校舎を見学し、 塾員(卒業生)の交流スペース「社中交歡 萬來舍」で弁当を食べるのが眼目で 出かけたのだが、知っているつもりの三田に、知らないことが多く、おかげさ まで収穫の多い一日となった。
旧図書館福澤諭吉胸像前で集合、AB二班に分かれ、われわれA班は福澤研 究センターの都倉武之講師の解説で、旧図書館横の「文学の丘」から見学を開 始した。 まず福澤諭吉胸像について都倉さん、福沢が自らの偶像化を好まず、 没後もながらく銅像が制作されなかったが、昭和29年、柴田佳石が当時存命 していた福沢の四女滝、四男大四郎の助言を得ながら制作、もっともよく福沢 の面影を伝えているとされている作品だと話した。 生前の福沢をモデルにし た唯一の彫刻は、志木高校にある大熊氏広作の明治26年の座像で、福沢は慶 應義塾の記念物として制作を許可して協力したものの、いったん義塾煉瓦講堂 (のち塾監局)2階大広間に飾られたあと、やはり自分の姿が人目にさらされる のを嫌ったので、家族は福沢の目に触れないように土蔵に放り込んでしまった という。
あとで行った「社中交歡 萬來舍」にも、2009年の「未来をひらく 福澤諭吉 展」で見た大熊氏広作の「灯台型置物」が飾られていた。 これも小室正紀協 会理事・経済学部長が、福沢が存命ならば、飾られなかっただろうと話した。 福沢の還暦の記念品として制作され、明治30年4月に完成、福沢に贈られ、 上の座像を土蔵にしまい込むかわりに、大広間に飾られたが、福沢は自分のこ とを灯台になぞらえた置物を嫌い、「あれは何だ」と怒鳴ったので、妻錦(きん) は福沢家の広間に布をかぶせて置き、だれかが盗んでくれないかと嘆いていた と、伝えられている。
この日の見学、とっかかりから、庶民的で、けして偉ぶらない、自分の偶像 化を毛嫌いする、福沢の人柄を再認識したのだった。
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