福沢書簡に登場する「藤田伝三郎」 ― 2012/05/08 03:11
藤田伝三郎、福沢諭吉とほぼ同時代の人なので、思いついて『福澤諭吉書簡 集』の索引を当ってみた。 藤田伝三郎宛の書簡はないけれど、ほかの人宛の 手紙の中に「藤田伝三郎」「藤田平太郎」「藤田組」が登場する。 この索引の 充実しているのが、有難い。
まず、明治12(1879)年の藤田組贋札事件である。 前年末、各府県から 政府に納められた国庫金の中から贋札が発見され、この年9月15日「ドイツ 滞在中の井上馨と組んで現地で贋札を製造して秘かに持ち込んで会社の資金に しようと企てた」として、藤田伝三郎はほかの7名とともに拘引され、東京に 移送されたが、何も証拠がなく12月20日に藤田は無罪放免となった。 明治 15(1882)年9月に真犯人が判明し、冤罪が晴れた。
藤田伝三郎が濡れ衣を着せられたのは、長州人脈を頼りに若くして大金持ち になったことを妬まれたこと、さらには薩摩と長州の勢力争いによるといわれ ている。 薩摩側は西郷隆盛の失脚、大久保利通の死と、次々に有力者を失い、 長州に押されていた。 そこで薩摩が支配していた内務省警視局を動かして、 長州系の大物の不正を暴く戦術が練られたというのだ。(2009年 6月7日の日 記で「山城屋事件」について書き、その前後に「尾去沢銅山事件」や「司法制 度の父」江藤新平の非業の死、さらには「福澤諭吉の法典論」にふれている。)
福沢書簡379 明治12年9月22日付、原時行(旧延岡藩士、藩教育の功 労者)宛。 「大阪にては藤田中野(梧一)の捕縛、山師も亦恐るべき哉」
福沢書簡383 明治12年10月7日付、岩橋謹次郎(和歌山県士族、明治6 年入塾、北海道開拓)宛。 「近日ハ藤田、中野之一条、中々喧しき事なり。 其真実の少しも分らず。何れ一、二ヶ月も過ぎたらバ、明白可相成存候。」
福沢書簡631 明治14年12月25日付、井上馨宛。 明治14年10月の「明治14年の政変」後、井上馨参議兼外務卿からの会見 の申入れに返答して、「大隈が国会之奏議諭吉之手ニ成りしものデアロウ、三田 之社中ニテ編製したる私擬憲法草案も諭吉之作デアロウ」「大隈と三菱と諭吉は 同穴狐狸デアロウ」云々という「デアロウ」論から脱却することを条件にして 応ずると伝えた手紙である。 「例ヘバ藤田、中野ハ贋札を作りたデアロウ、両人之外ニ誰レ彼レも之ニ関 係したデアロウとて、遂ニ一昨年之不体裁を生したるにあらずや」
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