松本尚久さんの「近代芸能としての「落語」」2012/11/26 07:04

 11月10日の日吉公開講座、フリーライター 浅原須美さんの「平成・全国花 街めぐり」と、放送作家・著述業 松本尚久さんの「近代芸能としての「落語」」 だった。 古今亭志ん生なら、「こういうのは、学校じゃあ教えないけれど」と、 言うところだ。 花街(かがい)は専門外なので、落語の方を紹介しておく。

 松本さんは、「近代芸能としての「落語」」を、三つの柱を立てて読み解いた。  第一、落語という芸能には、固定化された台本や演出がない。 それぞれの 時代を生きた落語家たちは、その「時代」に合わせ、自由裁量、自己裁量で、 噺を語り直してきた。 それは子供の頃、寝る前に母親が話してくれた昔話と 同じで、聞くたびに違う展開を見せる。 そうした幼児体験があったから、落 語を好きになったのかもしれない、というのは一つの発見だった。

 たとえば三遊亭圓朝作といわれる「芝浜」、評価の高い三代目桂三木助と、立 川談志のそれは、違う。 三木助の財布を拾う浜の描写は、詩的で、きれいな 言葉を連ねる。 談志は、詩的な部分はないが、海の中に揺らいでいるものを 煙管の雁首でひっかける、無言のパントマイムがある。 古今亭志ん朝のには、 芝浜の場面がなくて、家に帰って女房に説明する中で出て来る。 これは、志 ん生のやり方を引き継いでいて、長く細かくやると夢にならない、魚屋の一人 言をそこまで一人言を云う人はいないと、テンポ感や自然さを大事にしている。  どの「芝浜」も、甲乙つけがたい。

 第二、落語は自分を笑っている。 落語を聴いていると、身に覚えがあり、 恥ずかしくなる、自分の生活とシンクロしているところがある。 八代目桂文 楽は「痛いと思ったら、それが芸だよ」と教えたという。 気まずい、間違え た、辛い、恥ずかしい、みっともない、それを芸の中に取り込みなさいという のだ。 廓噺には振られた噺が多い。 女郎に腕をつねられて、その痣を見せ て、ノロケル奴がいる。 色褪せて来ると、自分でつねり、色を足す。 変な ものを自慢し、もてたつもりになっている奴は、自分だよな、という気がする。  これやっちゃうかもな、と思う。 落語には、間抜けな泥棒が出て来る。 ほ んの出来心、困った時に、傘や鉛筆をちょっと失敬するということはあるかも しれない。 そうした心の動きは、誰にでもある。 野次馬の立場ではない。  外側から自分を見て、笑うのだ。

 第三は、また明日。