「松平」だらけ ― 2013/04/03 06:32
「松平」で、『広辞苑』に出ているのは、松平容保(かたもり)、春岳(慶永) のほか、つぎの人々だ。 江戸初期の「忠直」…結城秀康の長男、徳川家康の 孫、福井藩主。 江戸前期の「信綱」…老中、川越藩主、伊豆守、知恵伊豆。 江戸後期の「定信」…老中、田安宗武の子、奥州白河藩主、寛政改革。 「治 郷(はるさと)」…出雲松江藩主、茶人、不昧(まい)・一々斎・一閑子。 講 談・小説中の人物「松平長七郎」…駿河大納言徳川忠長の長男という、紀伊徳 川家の庇護の下に江戸・大坂に住み、和歌山で没したとされる。
2006年の2月22日から、友人堤克政さんの「ちょんまげ時代の高崎」につ いて書いた(駿河大納言事件も、その中にある)。 堤さんは「頼政神社氏子総 代」「高崎城主大河内家の家老等を務めた堤家の十三代」である。 上記の松平 伊豆守信綱、三代将軍家光の老中として島原の乱を収拾するなど功績を上げた “知恵伊豆”の五男信興が分家独立して大河内右京大夫(たいふ)家を興し、土 浦三万二千石の大名になった。 信興の甥で継嗣となった輝貞が、土浦から栃 木壬生を経て、高崎五万二千石に栄進する。 この大河内家が、明治まで十代、 百六十八年間、高崎の殿様を務めることになる。 堤克政さんの堤家は、初代 の幸政という人が、信興が土浦城主として独立し大河内家を興した時、付け家 老として派遣され、そのまま大河内家の家臣になった。 そして二代目堤幸継 が、二代目殿様大河内輝貞に従って、壬生から高崎にやって来た。
松平大河内家の広大な廟所が、埼玉県新座市野火止の臨済宗の名刹・平林禅 寺にあるのだそうだ。 平林寺の大河内輝貞の墓碑には「高崎城主従四位下侍 従兼右京大夫松平源朝臣大河内輝貞」とあるという。 輝貞の曽祖父が、 松平親綱の養子だったので、江戸時代、公式には「松平」を名乗った。 徳川 家は徳川家康の九代前の有親が、松平氏の娘婿となって松平を名乗った。 家 康以前に分立し幕末まで残った三河以来の松平家は十一家もあった。 家康の 子や孫で分家となったのが十八家もあり、宗家と御三家以外は徳川を名乗れな かったから、これも松平、ほかに一族の結束と安泰のために外様大名にも松平 姓を与えたから、松平だらけになったのだそうだ。 大河内氏は大河内松平と 呼ばれ、高崎の他に三河吉田(豊橋)七万石、上総大多喜二万石の三家がある。
「源朝臣(みなもとのあそん)」というのは、遠祖を清和源氏の本流である源 頼光四世源頼政としているためで、ここに堤さんが「頼政神社氏子総代」にな っているわけがある。
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