『山陽新報』と小松原英太郎、鈴木券太郎 ― 2014/04/15 06:36
やや煩雑になるが、行き掛かりで、『福澤諭吉年鑑』29号(2002年)再録の 丸山論文に付された岡部泰子さんの「補注2」を見ておく。 松沢さんの服部 禮次郎書簡の校注で、昨日引用したように、最後のところだけ『山陽新聞』が 『山陽新報』となっている。 その点は、「補注2」に、『山陽新報』1879(明 治12)年1月4日創刊、初代主筆は小松原英太郎(1852(嘉永5)-1919(大 正8))、1936(昭和11)年12月1日に『中国民報』と合併し『合同新聞』と 改題、1948(昭和23)年に再び『山陽新聞』に改題、とある。 鈴木券太郎 論説が載った新聞は、『山陽新報』とした方がいいのだろう。
小松原英太郎に戻ると、小松原を主筆に迎えた創刊当時の『山陽新報』は、 彼の思想の影響下にあり、岡山県の自由民権運動をリードした。 当該期の『山 陽新報』に福沢思想の強い影響を見出せることは、内藤二郎、小畑隆資両氏に よって指摘されている。 1874(明治7)年に23歳で岡山から上京した小松 原は、慶應義塾を3か月で退塾している(入社年月日は1874年10月12日、 『慶應義塾入社帳』第一巻)。 しかし彼に上京を勧めた岡山での師、そして『草 莽新聞』の創刊者である坪田繁も、慶應義塾で英学を学んだ(坪田の入社年月 日は1872(明治5)年2月18日)。 小松原の在塾期間は、極めて短期間であ ったが、坪田を通して福沢思想の強い影響を受けたといえよう。
鈴木券太郎(1862(文久2)-1939(昭和14)) 号は醇庵(他に乳水陳人、 毛山狂生)。 『明治新聞雑誌関係者略伝』及び『山陽新聞七十五年史』には同 人社で学ぶとあるが、『慶應義塾入社帳』第二巻にもその名は確認できる(入社 年月日は1879(明治12)年4月7日)。 その後『大阪日報』に入る。 1882 (明治15)年に自由民権運動に参加し、『嚶鳴雑誌』の幹事となり、『東京横浜 毎日新聞』を経て(同年3月-6月)、『日本立憲政党新聞』に転じた。 1885 (明治18)年、1892(明治25)年と二度にわたって『山陽新報』主筆を務め る。 「欧化主義ヲ貫カザル可ラズ」は第一回主筆時代の論説である(小松原 退社後、万代義勝・大江孝之・永田一二・江口高邦・福井彦次郎と続いた後の 七代目主筆)。 1887(明治20)年10月の退社後には政教社に入り『日本人』 『亜細亜』等に執筆、のち『日本』記者として活躍。 1892年『山陽新報』に 再入社し、二度目の主筆を務める。 1906(明治39)年6月から1907(明治 40)年12月まで徳島県立徳島中学校校長、1907年12月3日から1909(明治 42)年10月まで佐賀県立佐賀中学校校長。 著書に、『やまと経済学』(尚古 堂、1881(明治14)年)、『貨幣論綱』(ゾライス著、岡島支店、1884(明治 17)年)、『日本婚姻法論略』(帝国印書会、1886(明治19)年)、『亜細亜人』 (政教社、1891(明治24)年)、『日本親族相続法義解』(冨山房、1899(明治 32)年)、『犯罪論及女性犯人』(井冽堂、1905(明治38)年)など。
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