日本の窓、横浜誕生の物語2024/05/19 07:24

 その前日に、『ブラタモリ』「横浜の秘密は“ハマ”にあり!?」<小人閑居日記 2016.8.24.>というのを書いていたので、ついでに再録したい。

  『ブラタモリ』「横浜の秘密は“ハマ”にあり!?」<小人閑居日記 2016.8.24.>

横浜が歴史の舞台に登場するのは、安政元(1854)年ペリーの二度目の来航の時である。 浦賀で対応しようとした幕府に、黒船は羽田沖まで入って威嚇したため、両者の間をとって、横浜に応接所が設けられた。 ペリーは2月10日(1854.3.8.)横浜に上陸、3月3日(3.31.)今の開港資料館の所で日本最初の近代的条約である日米和親条約が調印された。 開港資料館の中庭にあるタブノキの一種、玉楠の木が、ペリー艦隊に随行した画家ハイネが描いた石版画「ペリー横浜上陸の図」の右側にある木なのだそうだ。

 当初から貿易通商を目ざすアメリカの、ハリスとの交渉の結果、安政5(1858)年に結ばれた日米修好通商条約によって、兵庫、長崎、新潟、箱館とともに神奈川の開港が決まった。 ハリスは初め、江戸、品川を開けと主張したが、幕府は神奈川に譲歩させ、さらに横浜も神奈川の小字だと強弁して、街道から外れ、大きく迂回しないと行けない砂州と、それに連なる釣鐘型の入江を干拓した新田の上に、新しい街をつくり、まわりを堀割と関所で囲む、長崎の出島のようなものを構想した。 神奈川宿には東海道が通っており、外国人と接触する機会が多くなるのは何かと問題だし、過激な攘夷家が何をするかわからない懸念もあった。 当初、各国外交団はあくまでも神奈川開港を主張して、神奈川(現在の横浜駅から東京寄りの地域)に領事館を開設したが、幕府は横浜(現在の桜木町駅から元町までの間に広がる横浜中心部一帯)に居留地を整備するなど既成事実を積み上げた。 港としては神奈川よりも横浜の方が適していたこともあって、外国商人はここに居住地を定めるようになり、ついに万延元(1860)年3月各国外交団も横浜居留地を承認せざるを得なくなる。 居留地では波止場に向かって、右(今の元町寄り)に外国人街、左に日本人街、奥の沼地の中(今の横浜スタジアムの所)に遊廓があった。 もとの砂州の住民を移住させたところが「元村」(今の元町)で、堀割と関所で囲んだところから「関内」の地名が生れた。

 今回の『ブラタモリ』、京浜急行で横浜から一つ品川寄りの神奈川駅前から青木橋を渡って山側へ、アメリカ領事館跡である本覚寺のある権現山に続く台地を登って行く。 これが旧東海道、広重の浮世絵にある海沿いの坂道で、つまりここから横浜駅側は海だったことになる。 「台の茶屋」の一つ、文久3(1863)年創業の料亭田中家に入れてもらって、横浜駅側を望む。 ビルだらけだが、女将は「昔はオーシャンビューだった」と。

 2003年に故石川潔さんの「新・横濱歴史散歩」の現地散策で、ここへ行った時は、「神奈川台の関門跡」から右に急坂を登って、上台町公園、かえもん公園へ行って、鉄道線路を見下ろした。 『ブラタモリ』では、再び線路の反対側、京急神奈川駅の品川寄りに回って、早い花見客がいた幸ヶ谷公園から、鉄道線路を見下ろした。 明治に入って困ったのは、横浜の中心になった“ハマ”と東京との陸路の交通の問題だった。 この両側の公園の山はつながっていたが、山を崩し切り通して、その土で海の中に鉄道を通す土手をつくる埋め立てに使った。 明治5(1872)年、日本初の横浜-新橋間の鉄道である。 石川潔さんの説明は、こうだった。

 上台町公園、かえもん公園には高島嘉右衛門の屋敷があったので、高島易断の碑、望欣台の碑、弁玉の歌碑などがある。 高島嘉右衛門は常陸から少年の時江戸に出て材木商となり、漸次産を成した横浜の実業家で、ご禁制の(例の金銀交換比率差利用の)金取引のかどで小伝馬町に入牢中に牢屋にあった本で勉強して高島易断を創始、鉄道敷設にあたっては海中に鉄道線路用土手を只で築く一方、土手までの土地を埋め立てればもらえる契約をして、現在の高島町にその名を残す。 望欣台とは台地にある自分の屋敷から埋め立ての進行状況を毎日眺めて嬉しがっていた所の意。 洋学校高島学校、ガス事業などでも貢献し、福沢諭吉を高島学校へ招こうとして、息子たちの留学費用を負担するからという条件を出し、独立自尊の人に断わられる(『福翁自伝』に出てくる「横浜の富豪」)。