「日ソ中立条約」と、松岡のチャーチル宛返信2024/06/03 07:03

 ベルリンからモスクワに到着した松岡外相を迎えた西春彦駐ソ公使(戦後の駐英大使)によれば、松岡は「ドイツは対ソ攻撃をやるだろうかと私たちにも質問し、この点をしきりに気にしている模様であった」。 4月7日に松岡・モロトフ外相会談。 「国交調整」交渉の日本側の主張に対して、当時日本領だった、南樺太(現サハリン南部)と千島列島(クリル列島)の領土権をソ連が放棄する「不可侵条約」には応じられない、ソ連にとって失地回復の余地を残す「中立条約」でどうだ、とモロトフはゆずらなかった。

 第2回会談で松岡が「不可侵条約を撤回して、中立条約への同意まで一歩退き、ただしその中立条約は無条件」としたのに対し、モロトフは「北樺太利権の解消」を要求した。 日をおいた第3回会談でも交渉はまとまらず、断念しかけたときに、スターリンが直(じか)に電話をよこし、交渉に乗り出してきた。 結果は、「北樺太利権の解消に努力する」ことで決着しようというスターリン提案に松岡が応じた。

 こうして1941年4月13日午後2時ごろ、「日ソ中立条約」は、クレムリンの執務室でスターリンが見守るなか、松岡、建川美次駐ソ大使、モロトフの三人によって調印された。 隣室に移動して、シャンパンが抜かれ、まずスターリンが「天皇陛下のために」と乾杯した。

 いったん日本大使公使公邸に戻り、祝宴を張った松岡一行は、午後5時前にヤロースラヴ停車場に着いた。 何とスターリンとモロトフが送りに来て、双方とも酔っ払った状態で、松岡、建川と熱い抱擁を交わした。 チャーチルは、この「駅頭シーン」を回想録に、「こうした抱擁はそらぞらしい見せかけであった。スターリンは自国の情報機関によって、現にソ連国境全線にわたってドイツ軍が大規模に展開されていたことを知っていたに違いない。その展開は英国情報機関の目にも付き始めていたのだから」と書く。 さらに松岡については、「松岡氏はモスクワ滞在中に私の手紙を受取り、シベリア横断列車で帰国の途中、内容空疎な返書を認(したた)めて、東京に着くとともに発送した」とある。

   松岡のウィンストン・チャーチル宛返信 1941年4月22日

(重光駐英大使が松岡との打ち合わせのため大陸へ渡航しようとした際の英国政府の配慮に感謝した後) わが国の外交政策は、事実関係のすべてを公平に評価し、直面する諸情勢を注意深く検討したうえで、常に、征服も抑圧も剥奪もない世界平和を目指して、私どもが八紘一宇と呼ぶ民族的精神にもとづき決定されますことを、ご賢察いただけると思います。

いったん外交政策が決まりましたならば、情勢の変化をつぶさに考慮しつつ、慎重のうえ慎重をかさね、しかし断固として、実行するのは申すまでもありません。

この手紙の5日後に生まれた私は、この「八紘一宇」のスローガンから「紘二」と名付けられた。 兄は、母方の祖父の名から「晋一」、戦後晴れた日に生まれた弟は「晴三」と、一二三と順番になっている。