チャーチル、南ア戦争で捕虜となり脱走する冒険談 ― 2024/06/05 07:04
小泉信三さんが「南阿戦争」と書いた「南ア戦争」、『広辞苑』には「1899(明治32)~1902(明治35)年、トランスヴァール共和国およびオレンジ自由国に対して、金などの資源獲得のためにイギリスが行なった植民地拡張戦争。イギリスは辛勝した後、両国を併合、1910年南ア連邦を建設。ブーア戦争。ブール戦争。ボーア戦争。南アフリカ戦争。」とある。
チャーチルは25歳の時、この南ア戦争に新聞通信員として従軍し、戦闘に参加して捕虜となり、敵の首都プレトリアの捕虜収容所から脱走して国外に逃れ、今度は軍人として戦場に復帰し、退却する敵軍を追尾して元の捕虜収容所に乗り込み、戦友等を釈放したその始末は、ちょっと作り話の冒険談にもないスリルを感じさせる、と小泉信三さんは書き始める。 南ア戦争は1899年に起り、大英国は3年の年月を費やし、30万の大兵を動かして、ようやくブーア人を屈服させることができたので、あまり自慢になる戦争とは見られない。 元来ブーア人はオランダ人の入植者で、これが南アフリカにトランスヴァール共和国およびオレンジ自由国を建設したのが、喜望峰植民地から北進するイギリス人と衝突することになった。
これより先、ウィンストン・チャーチルはサンドハースト士官学校を卒業し騎兵将校となり、インド駐屯中、辺境部族との戦闘に参加し、またキッチナー将軍の下にアフリカのナイル河戦争にも出征して、それぞれ新聞に通信した戦記によって人に知られていた。 南ア戦争が起り、彼は再び「モーニング・ポスト」新聞の通信員となって現地に赴いた。
11月15日、アフリカ南東端の海港ダーバンから西北150キロの地点で、英軍は装甲列車で強行偵察を試みていたが、敵に襲われ、脱線した。 記者であるべきチャーチルも、兵とともに応戦しているうちに離れ、そこを敵兵に襲われる。 一人騎馬のブーア兵が銃をふりかざし、何か叫びながら急迫してきた。 チャーチルは腰の拳銃をさぐるが、落としたのか、ない。 やむなく手を挙げて降服し、捕虜となった。 このブーア兵は、後に南アフリカの首相となったルイス・ボータ将軍であったという。 後年、チャーチルが植民省次官のとき、英領南ア共和国の政治家数人が、ロンドンの植民省に復興債発行の依頼に来た。 チャーチルが承諾した後、南ア戦争で捕虜になった顛末を話すと、その一人が「私の顔に見覚えがありませんか」と言った。 ルイス・ボータだった。
捕虜となったチャーチルは、首都プレトリアの捕虜収容所に護送された。 学校の建物で、60人の英国士官が40人のブーア警官に監視されていた。 12月12日夜、チャーチルは単身、便所の窓から抜け出し塀をのり越えて脱走した。 夜中にプレトリア市中を通り抜け、鉄道線路に出て貨物列車に飛び乗った。 翌朝未明に飛び降りて、また夜を待ち、飢え疲れ、灯火をたよってある家の戸を叩く、内から誰何する言葉は、完全な英語だった。 チャーチルは、汽車から落ちて負傷したと偽ったが、主人は彼を一間に招き入れ、錠を下ろし、短銃を卓に置き、「貴方、本当のことをいってくれませんか」と言った。 主人は布告で脱走のことを知っていたのだ。 布告の人相書には、「鼻声で語る。Sを正しく発音すること能わず」とあり、懸賞金は25ポンド(約2万5千円)であった。 結局、彼はこの人に救われ、その管理する炭坑の内に潜んで、逃れることができた。 逃走後6日の12月18日になって、貨物列車の積荷の間に隠れて国境を越え、アフリカ南東岸ポルトガル領ロレンソマルケスの英国領事館に名乗り出る。
ところがチャーチルは、せっかく脱出に成功しても本国には帰らず、今度は本来の将校になって、また戦場に立ち帰る。 そして最後は、退却する敵軍の後を追って、プレトリアの捕虜収容所に乗り込んで、そこに囚われている戦友を解放した。 そして、軍服を脱ぎ、本国に帰ってオルダムの選挙区から衆議院議員に立候補した。 選挙区民が彼を国民的英雄として迎えたのは当然で、これがチャーチルの政治生活の発端となった。 1900年7月、26歳の時のことだった。
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