御三家尾張藩の青松葉事件と「今尾藩」 ― 2024/06/21 07:07
幕末の大村藩、大村騒動のような事件が、徳川御三家の尾張藩でも、幕末、尊王攘夷派と佐幕派の対立抗争があり、それを書いたことがあったのを思い出した。 しかし、どういう題だったか思い出せず、<小人閑居日記>のindexを「徳川家」や「尾張」で検索したが、出て来ない。 しかたなく、ここ10年程の<小人閑居日記>を「尾張」で検索して、「青松葉事件」というものだったことが判明した。 これが『図書』の連載で読んだことだったのも、共通していて面白い。 事件後、今尾藩という藩が生まれ、中勘助の父勘弥が家令を務めたので、中勘助は神田の旧今尾藩邸で生まれていた。 そうした尊王攘夷派と佐幕派の対立抗争は、おそらく全国の諸藩であったのであろう。
「今尾藩」と青松葉事件<小人閑居日記 2015.10.14.>
9月25日の「等々力短信」第1075号「もう一つの中勘助」に、菊野美恵子さんの『図書』(岩波書店)連載を読んで、中勘助について新知見が出てきたと書いた。 中勘助の兄嫁が、吉田松陰の弟子、入江九一・野村靖兄弟の、弟の方の娘だったことが、一つ。 姻戚関係の説明が複雑だったので、図を描いてくれたという良き読者が二人もいた。
新知見のもう一つは、「今尾藩」についてである。 中勘助の父は岐阜の今尾藩の藩士で、勘助が明治18(1885)年にその東京藩邸内で生まれたことは知っていた。 だが「岐阜の今尾藩」について、どんな藩なのか、つっこんで調べることはしなかった。 菊野美恵子さんは9月号の「ぬぐえぬ影」で、その「今尾藩」に触れている。 中勘助はしばしば「中家に子孫はいらない、忌まわしいことに関わった中家は絶えたほうがいい」と、身内の者たちに話したという。 その言葉と中家の出身地を合わせると、維新前夜に尾張名古屋で起こった青松葉事件に突き当たる、と菊野さんは書いている。
青松葉事件という奇怪な事件は、直後から意図的に覆い隠され、後世の研究でも謎が深まるばかりで、時がこう流れては真実が明らかになることもあるまいと思われる、のだそうだ。 城山三郎の小説『冬の派閥』(新潮社・1982年)や関連資料を参照すると、事件はおよそ以下のようである、という。
慶應4年1月、尾張藩で突然佐幕派粛清事件が起こった。 妙な事件名は、最初に処刑された重臣渡辺在綱の屋敷が青松葉と呼ばれていたことに由来するという。 徳川御三家の尾張藩でも、幕末、尊王攘夷派と佐幕派の対立抗争があった。 成瀬家と竹腰(たけのこし)家が家老として大きな力を持っていたが、当時は成瀬派が「金鉄組」と名乗り尊王攘夷を唱え、それに対し渡辺在綱らの竹腰派は金鉄をも溶かす「ふいご党」を名乗って佐幕的な立場をとっていた。
14代尾張藩主、徳川慶勝(よしかつ)は政情渦巻く京都にいたが、1月20日に急遽尾張に帰国し、同日、「ふいご党」の渡辺在綱ほか2名の重臣を朝命として斬首した。 「朝命が一藩の人事に及ぶはずがない、説明を」との望みも聞き入れられず、また弁明の機会も与えられなかった。 同様に、続く4日の間に藩士11人が殺され、家屋敷はただちに竹矢来がめぐらされ、遺族たちは蟄居、他家預け、家名断絶、財産没収など厳しい処分を受けた。 遺族の中からも憤激や悲嘆のあまり、切腹する老父や自害する妻などが次々に出た。
これだけのことが起こりながら、その原因については、岩倉具視の謀略、征長総督をつとめた藩主慶勝への長州の復讐、薩摩藩の陰謀など、さまざまな説があり、真相がはっきりしない。
さらに、これだけの犠牲を払った事件後の展開は、奇妙なものだった。 事件の双方の当事者、成瀬家、竹腰家がともに、突如新たに大名として新政府に認められたのである。(明治元年立藩、明治2年版籍奉還) 昨日まで粛清の対象であったのに、何ごともなかったかのように今尾藩藩主になった当の竹腰家はもとより、尾張藩の皆が狐につままれたような気持になったことであろう、と菊野さんは書いている。
勘助の父、中勘弥は、この新しい今尾藩の初代にして最後の藩主竹腰正旧(たけのこしまさもと)の家令として上京し、勘助もそのため神田の今尾藩邸で生まれている。 さらに竹腰正旧の正室は勘弥の養女であったのだから、勘弥が「ふいご党」の中心人物たちときわめて近い存在だったことは、間違いない。 なぜ勘弥が、無念の思いをのみ込んで死んでいった14人の中に含まれず、そして、生涯沈黙を守ったのか、今となっては知るよしもない、という。
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