将軍家重、文耕を「ただの涙もろい伊達者」と見る ― 2024/09/25 06:54
家重は、切れ切れにではあったが、文耕には饒舌と思えるほどよく喋った。
元服後、二の丸から西の丸に入ることで、次代の将軍は家重と目されるようになる。 それからも、小姓であった大岡忠光に二人だけのときに話したことを家重の意として他の者に伝えてもらうようにしたが、三十五歳でいよいよ将軍になると、その方策は極めて重宝なものであると気がついた。 上意は一度発出したら変えられないが、忠光が家重から聞いた言葉ならどのようにでも正せるからだ。
文耕は、家重の思いもよらなかったほどの明晰さに驚きながら、なぜそのようなことを自分に話してくれるのか不審にも思っていた。 畏れながら、と一つ訊ねた。 「なにゆえ、上様は文耕の講釈などをお聞きになろうと思(おぼ)し召されたのでございましょう」 「龍助の勧めじゃ」と、田沼意次の方を見た。 「吉宗公有徳院様には、若い頃、市井の者との豊かなまじわりがあったと聞いている。自分も望まないではなかったが、有徳院様ほどの壮健さがなかったため果たせなかった」 いくらか口惜しそうに、「芝居小屋で歌舞伎を見てみたかったし、隅田川で花火の音を聞いてみたかった。もっと気ままに振る舞えれば、どんなによかったことであろう……」 「この千代田の城下で、公方や幕閣への悪口雑言を売り物にしている講釈師がいるという。自分はその講釈師の話を聞いてみたいと思ったのだ。南洋渡来の珍獣を見るようなつもりでな」 そこで家重は声を出して笑った。 この三十年ほど前、吉宗の求めで長崎から安南生まれの象が運ばれてきた。 「この襖の奥で、講釈師の口からいつ家重や忠光への悪口雑言が出てくるかと楽しみにしていたが、ついに出てこなかった。宝暦の珍獣は、享保の象のようには姿を現さなかった」
「だが、紀伊家の臣下による仇討ちと吉原の遊女との交情の話を聞いて、馬場文耕がどのような者か解った。いくら公方や幕閣の要人について遠慮会釈のない言葉を撒き散らしている者といえど、特段、肝の据わった剛の者でもなければ、ひねこびた拗ね者というわけでもない。ただの涙もろい伊達者と見た」 文耕には、それが褒め言葉のように聞こえた。
「上様についてのこれまでの妄言、すぐにも書き直し、語り直さなければならなくなりました」 すると、皮肉な口調で大岡忠光が言った。 「今更、そなたが、実は上様の言葉は誰でも聞き取ることができるものだったなどと講釈しても、誰も信じまい」 「一度信じられた噂を覆すのは難しいものと聞く。そこをあえて語ろうとすれば、むしろ馬場文耕は虚言を弄する者ということになりかねまい」 鋭い指摘に、文耕には返す言葉がなかった。
その二人のやりとりを聞いていた家重は、誰にともなく「家重は明君である必要はなかった。有徳院様が強力によって通された道を、歩きやすく均すだけの役割を担ったのだ。新しい道は家治が切り拓けばいい……龍助らと共に」
家重は、ただし、そなたの書いた誤りの中で、正しておきたいものがあると、お幸について話した。 「お幸を遠ざけたのは、あれこれとうるさいことを申したからではない。お幸は家重がなにゆえ酒を多く飲むかよく解っていた。だから、それについて諫言などするはずもなかったのだ」 「お幸を側に置いたのは、亡き比宮(なみのみや)と共に江戸に来た者として、比宮のことを思い出させてくれたからだが、側から遠ざけたのも、比宮のことがあまりに思い出されてならなかったからだ。人の心というのは、まこと面妖なものでな」
そして、独り言のように呟いた。 「この躰を、いま少し自在に動かすことができていれば……」 文耕も、家重のために、その壮健さを持つことができていたらどれほどよかっただろうと思った。
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