中退、借金返済に広告取り、『ハイスクール・ライフ』編集、稲垣足穂2024/09/06 07:07

 松岡正剛さん、1963年に早稲田大学文学部に入学、新聞会に入るが、学生運動真っただ中、全学連の時代で、「早稲田大学新聞」はその拠点の一つだった。 だが、正剛さんは革命的マルクス主義一辺倒にはならず、途中から相対性理論とか量子力学とかに惹かれて、不確定・不確実なものを相手にすることに夢中になっていく。 マルクス主義や社会主義や共産主義では、正剛さんの世界観を変えるに至らなかった。

 1967年3月、父が膵臓がんで亡くなり、借金を残した。 その返済で母に頼まれ、大学を中退して、銀座の広告代理店「PR通信社」に入り、広告取りに集中した。 たとえば、全日空とマックスファクターとか関係ない2社を選んで、「お出かけの日」のコピーをつけ、見開きの広告にしようと考える。 面白がられて、どんどん取れた。 いまだに正剛さんの「編集」には、「離ればなれを出会わせたい」という気持がある、という。

 しばらくしたら、PR専門の「マーケティング・アド・センター」(MAC)という子会社を作ることになり、そこに移る。 東販(現トーハン)から高校生向けの読書新聞を作る依頼が来て、『ハイスクール・ライフ』という名前を付け、編集しまくった。 タブロイド判、表紙の絵は宇野亞喜良さん、唐十郎、倉橋由美子、野坂昭如、土方巽らの〝前衛〟に次々と登場してもらった。 全国の書店に無料で置き、当時のとんがった高校生はみんな読んでいたと思う。

 その頃、出会った作家の一人が、稲垣足穂さんだった。 京都の桃山にお住まいで、ふんどし姿で応じられるのだが、初対面で「あんた、サムライみたいやなあ」、「『許さんぞ』という顔をしている」と言われた。 いつも酔ったような感じで、翻弄された。 「ホックと留め金、これが世界やで」とか、片言隻語でパーッと先に進む。 わかるようなわからないようなことを、おシャレな口調で言う。 前代未聞だった。 1969年にパステル画家と結婚、『ハイスクール・ライフ』の対談の収録と一緒に、新婚旅行先に稲垣足穂邸を選んだ。 妻も足穂にぞっこんで、後に挿絵を描くようになる。

 稲垣足穂のセンスは、宇宙論と存在学、とくに物理学が好きで、それらが混じった独特の人体哲学を持っていた。 そこに独特のダンディズムが加わっていた。 わからなさこそが多重な意味を発するんだという思想だ。 足穂さんの言葉でいえば、何十層にもなっている雲母を傾けていくと、ある角度だけ隙間から向うが見える。 その瞬間を「薄板界」と呼んで、「それをわしは見たいんや」と言われていた。 「僅かなもの」「はかなさ」を重視しているのだ。

出版社「工作舎」、雑誌『遊』、杉浦康平さんと造本2024/09/07 07:00

 松岡正剛さん、父親の残した借金をなんとか返し終わって、自分なりに何かを始めなければという時期だった。 次は雑誌だな、と思っていたら、稲垣足穂の本を作った仮面社が雑誌を作らないかと言ってきた。 でも、うまくいかず、いったん断った。 誰も見たことのないメディアにするつもりで、再生して止めて、また再生する、早送りや巻き戻しができる、そういうビデオ的な雑誌が作りたかった。 1971年、元上司に100万円を借金して出版社「工作舎」を作り、雑誌『遊』を創刊した。 「遊」は、遊牧民(ノマド)からきていて、じっとして動く、動いてじっとする、読む人が遊牧的になるメディアを試したかった。 学問も自由にしたい。 国語、算数、理科、社会じゃなくて、それらをまたぐ対角線を発見したいと思っていた。 そのためには、メタフォリカル(隠喩的)な連想や見立てがもっと入っていい。 言語的で、かつ映像的な見立てが利くメディアを模索したかった。 後にこの方法を「編集工学」と呼ぶのだが、編集的な見立ての可能性をふんだんに増やそうと思った。

 前に言った航空会社と化粧品会社は両方とも「お出かけ」でしょうみたいな見立てが入ると、まったくちがうものが連動する。 たとえば「神道」の特集に「化学」をぶつけるとか、見立てが利くか利かないか、ギリギリのところへ言葉を持っていく。

 ただし、これをビジュアルデザインでやれるのは世の中に一人しかいないと思った。 それでグラフィックデザイナーの杉浦康平さんにお伺いを立てに行った。

 杉浦康平さんは、東京芸大の建築科の出身なのに、グラフィックデザインに比べて「建築は線が甘い」と、驚くべき発想をする。 それと、広告ではなく、編集されたものをデザインすることに特化したいという思いを持っておられた。 正剛さんは、編集を生涯の仕事にしようと覚悟を決めていたので、作業と表現を厳しくやる人に学びたいと思った。 自分で『遊』創刊号のダミーを作って、「これをむちゃくちゃにしていただきたい」と頼みに行った。

 杉浦さんは目が悪くて、「近乱鈍視だ」と言っていた。 お月様が九つに見えるらしく、そういう「知覚の月」をどうやったら表せるのかを考えていた。 デザインをお願いしたというよりも、考え方や後の「編集工学」の基礎を教わった。

 杉浦さんの言うとおりにしようと思っていた20代後半と30代だった。 稲垣足穂『宇宙論入門』、「夕方に行ったらカフェが閉っていたけれども、月が昇ったら扉が開いて、そこに『宇宙論入門』があった、みたいな本にしたい」と言ったら、「ふうん、じゃあ穴をあけよう」と。 「そんなこと製本屋がやりますか」 「やらない。だから松岡君、見本持って工場を探してきてよ」と。 それからが大変だった。 稲垣足穂『人間人形時代』も、真ん中に穴があいている。 『全宇宙誌』は漆黒で、工作舎時代の造本はいまも語りつがれる。 正剛さんは、もうこれをやらないかぎりだめだと思っていた、編集力には「形」がいるのだ、と。

知の編集工学にかたちを求め、ネットの片隅に「編集の国」2024/09/08 07:26

 松岡正剛さんは、雑誌『遊』を出しながら、編集とは組み合わせであるという確信を強めていった。 何かと何かを組み合わせる結合術は、それ自体が世界の新たな「あらわし」と「あらわれ」になる。 科学的なものと精神的なものを一緒に扱いたいと思っていたので、『遊』は宗教性や精神性など、秘教的なイメージにも危ういほど近づいた。 科学と精神、それぞれ守っている領域を超えようとしたときに、たとえば神秘主義とかオカルティズムが読者に感じ取られ、いまでいうスピリチュアルな読者がものすごく増えたことは事実だ。 ただ、正剛さんは、科学の領域と宗教の領域を混ぜて編集がしたいわけなので、ある思想に依拠したのではなかった。

 1982年に工作舎を退社し、松岡正剛事務所を設立。 美術全集『アート・ジャパネスク』(全18巻)や、文明の歩みを壮大な年表にした『情報の歴史』を手がけながら、「編集工学」の構想を練った。 「我々は生(なま)ではない」というのが、正剛さんの考え方の基礎にある。 メガネをかける、鉛筆やパソコンを持つ、言葉や図形や数字を使う、そこには必ず技術とか工学が加わっている。 となると、編集というものも工学の何かを借りている。 あるいは、編集そのものが工学じたいを生み出している。 工学性が編集に与えた影響と、編集が工学にもたらしたものをひもづけたい。 そう思い始めて、「編集工学」に向かっていった。 96年に『知の編集工学』で体系をまとめた。

 同時にメディアへの失望も感じていた。 いちばんの理由は、ベルリンの壁の崩壊と湾岸戦争だった。 この二つをきちんと捉えきれていない日本の実状に、かなりがっかりしていた。 日本は、元は国家どころか小さい単位でたくさんのものがあったのに、それが近代化を目指して国民国家を作り、徴税と徴兵のために「国民」と「そうでないもの」を分けてしまった。 ふとメディアを見ると、テレビも新聞も雑誌も国民国家的になっている。 これでは元々あった自由度や多様性から遠いなと、ずっと思っていた。 正剛さんが超えなければいけないのは国民国家というものだった。

 そういうなかで、知の編集工学にかたちを求めたい。 そう考えて、インターネットの片隅に「編集の国」を作るという発想に至った。 編集だけが進んだ国に旅をして、また戻っていく。 プリントメディアだけではなく、生きた状態で立ち寄れるところを作ろうと。

 それが後に、編集の方法を学ぶ「イシス編集学校」と、正剛さんが本を一冊ずつ取り上げて自在に書き継ぐ「千夜千冊」につながった。

編集という方法と、日本という方法が重なっていった2024/09/09 07:03

 松岡正剛さん、2000年以降は、『日本という方法』などで本格的に日本文化論を展開した。 日本は東洋に属して、しかも海を隔てた列島だ。 四書五経も仏教も外から入ってきたもので、稲・鉄・漢字・馬も順番に立ち上がってきたのではない。 そういう国なので、編集的な多重性があるだろうと。 だから日本をよく見ることによって、世界の文明や文化が見えるだろうという関心を持った。

 しかし、そんな日本の文化や歴史にもかかわらず、マルクス主義や構造主義、存在論や現象学など西洋の学問の方法で語ろうとしてきたために、説明の付かないものが増えてしまった。 九鬼周造や鈴木大拙のように西洋的ではない「いき」や「禅」で解明しようとした試みもあったが、トータルには説明できない。 むしろ柳田国男や折口信夫が試みた民俗学的な日本を、もうちょっとやり直さないといけないなと考えた。

 「日本が大事だ」といえば、ナショナリズムと思われがちで、「松岡正剛の右傾化」と受け取られることもあった。 しかし、正剛さんが考えていたのは、日本という国そのものが「方法」であるということだ。 「日本は方法の国だ」という確信は初期からあって、だんだんそれを固めていった。 最終的には「擬(もどき)」と言った。 なぞらえる。 あやかる。 歌舞伎や江戸遊芸では「やつし」と呼ばれるものだ。 本来のものを想定はするんだけれども、そこに少し逸脱をかける。

 どうも大日本帝国主義とか神国日本というのは、その本来を巨大化しすぎてしまう。 奥には正体不明だけれども日本が実感される「何か」はあるかもしれない。 でも、それを神様とか天皇に求めるべきではない。 やつさないと、そらさないと。 そのために方法がある。 私(正剛さん)が考えてきた編集という方法と、日本という方法が重なっていったのだ。

 最後に『仮説集』を残したい、エビデンスなしで、無責任な仮説を並べたてて終わりたい(笑)。 虚実をまぜた「編集的ボルヘス」という感じのもの。 芭蕉が「実から虚に行くな、虚から実に行け」という方法に近いものだ。 リアルがあってバーチャルがあるんじゃない。 バーチャルを先に作らないとリアルなんて説明がつかないと。 これですね、最後にやりたいのは。 それでやっと「本当にあいつは変だった」といわれるんじゃないですか(笑)。

「終わらない記憶の冒険 田名網敬一」2024/09/10 06:54

 9月1日、三田あるこう会の第567回例会で両国駅周辺を散策する予定だったが、台風10号の影響が長引き、8月29日に中止することになった。 それで『日曜美術館』「終わらない記憶の冒険 田名網敬一」を見た。 お名前も知らなかったが、松岡正剛さんと同じく「編集」を口にし、私より少し上だが、まさに同じ時代を生きてきた人だった。 極彩色の派手な絵を描くアーティスト、グラフィックデザイナー、イラストレーター、映像作家。 8月7日から国立新美術館で開催の「田名網敬一 記憶の冒険」展の準備をしている田名網敬一さんの、いろいろな様子の映像が流れ、おしゃべりも元気そうだったのだが、なんと8月9日に88歳で亡くなったのだそうだ。

 京橋の羅紗問屋に1936年7月生まれというから亡兄と同じ年で、戦争で空襲が始まると目黒の祖父の家に移り、9歳で東京大空襲を経験、新潟に疎開、目黒に帰ると、権之助坂からの眺めは、焼野原の赤い焦土とその上の青空、その赤と青が作品の基調に流れているという。 祖父の飼っていた畸形の金魚、目黒雅叙園の赤い太鼓橋を大きく扱ったり、伊藤若冲《動植綵絵》の鶏の赤を貼り込んだりしている。 轟音を響かせるアメリカの爆撃機B29、それを探照するサーチライト、B29が投下する焼夷弾、火の海と化した街、逃げ惑う群衆、脳裏に焼き付いたそうした戦争の光景や、戦後の多感な時代に影響を受けた映画やコミックスなどのアメリカ大衆文化もテーマになっている。

 武蔵野美術大学デザイン科卒。 広告代理店に就職するも、個人への仕事のオファーが多すぎて一年足らずで退社。 グラフィックデザイナー、イラストレーターとして多忙な日を送る一方、戦後日本を象徴する芸術運動の一つ、赤瀬川原平や篠原有司男らネオ・ダダイズム・オルガナイザーズと行動を共にし、番組にもボクシング・ペインティングの篠原有司男・乃り子夫妻がアメリカから来ていた。 そうした多彩な人生についても「編集」ということを言い、列車の窓から見る景色もそれぞれの人が頭の中で「編集」しているのだと話す。 1967年、ニューヨークに行き、ウォーホルの作品に触れて、シルクスクリーンにアートの新たな可能性を感じ、やりたいことはいろいろな方法でやっていこうと考える。 ポップでカラフルなイラスト、デザインワークは、国内外で高く評価され、1968年「反戦ポスターコンテスト」で「NO MORE WAR」が入賞する。 1975年、日本版『PLAYBOY』の初代アートディレクターとなる。 この頃はプリントワークと映像作品を中心に活動、高い評価を得る。 1981年結核になり、4か月入院、薬の副作用で病院の庭の松の木がぐにゃぐにゃになって動き出す幻覚を見たが、その松の木も以降の作品に頻出する。 最近は、ピカソの模写、といってもピカソの作品の田名網なりの変奏を数多く描いていた。

 番組では、「田名網敬一 記憶の冒険」展を概観、山下裕二さん、篠原有司男・乃り子夫妻、作家の朝吹真理子さんなどが感想を述べながら、見て回っていた。 池上裕子神戸大教授がコメントしていた。