ヨネ・ノグチ=野口米次郎と、映画『レオニー』 ― 2025/01/10 07:02
ヨネ・ノグチ、野口米次郎<小人閑居日記 2010.12.20.>
奥山春枝と同じ1890(明治23)年に、慶應義塾に入った野口米次郎について調べる気になったのは、映画『レオニー』を観たからだ。
野口米次郎は、詩人、慶應義塾大学部文学科初代教授。 1875(明治8)年、愛知県海部郡津島町(現津島市)に生れた。 慶應義塾で英語、歴史、経済学を学んだが卒業せず、1893(明治26)年19歳の時単身アメリカに渡る。 雑役夫などをして苦学の後、オークランドの詩人ウォーキン・ミラーの学僕となって詩作に関心を持ち、詩壇への登場も助けられた。 渡米後三年目に第一詩集『Seen and Unseen』(1897)を出版して注目された。 その後1902(明治35)年イギリスに渡り、ロンドンで『From the Eastern Sea』(1903)を自費出版して、トーマス・ハーディやアーサー・シモンズから賞賛を受け、英国の詩人たちと往来するようになった。 1904(明治37)年、11年ぶりで帰国、慶應義塾の英文学教授となり、以後40年間にわたって詩の講義を担当した。 「あやめ會」を起して詩人の国際的交流を図り、1913(大正2)年イギリスの詩人W・B・イエイツに招かれて、1914(大正3)年にオックスフォード大学などで日本の詩について講演を行った。 これらの講演は『The Spirit of Japanese Poetry』(1914)、『The Spirit of Japanese Art』(1915)として刊行され、「ヨネ・ノグチ」の盛名を馳せた。 浮世絵や能に造詣が深く、のちに『六大浮世絵師』(1919)などを出している。 日本語の詩集としては『二重国籍者の詩』(1921)、『林檎一つ落つ』『沈黙の血汐』(1922)、『山上に立つ』(1923)、『表象抒情詩』全四巻その他があり、多量の芸術、詩歌に関する著作がある。 1947(昭和22)年7月13日没、享年71。 墓所は神奈川県藤沢市の常光寺。 息子に彫刻家のイサム・ノグチがいる。
以上は、『慶應義塾史事典』「野口米次郎」(この項、新倉俊一さん)と、角川文庫『現代詩人全集』第二巻近代IIの略歴によった。 前者で1897年とある『Seen and Unseen』は、渡米後三年目=1896年の出版かもしれない。 映画プログラムの研究者星野文子さんの記述、『明界と幽界』は1896年。
『レオニー』という映画は、ニューヨークで野口米次郎と恋に落ちて、1904年ロサンゼルスでイサム・ノグチを産んだ、レオニー・ギルモアの物語である。
ヨネ・ノグチを支えたレオニー・ギルモア<小人閑居日記 2010.12.21.>
映画『レオニー』で、英国の女優エミリー・モーティマーが演じたレオニー・ギルモアは、1901年にフィラデルフィアの名門女子大ブリンマーを卒業(在学中にソルボンヌへも留学)、編集者になりたいという夢を捨てきれないまま、ニューヨークで教鞭をとっていた。 新聞で編集者募集の三行広告を見つけて、日本から来た青年詩人ヨネ・ノグチ、野口米次郎に出会い、雇われることになる。
プログラムにある星野文子(国際基督教大学大学院博士後期課程)さんの研究エッセイによると、1896年、日本人として初めて英詩集『明界と幽界』(『Seen and Unseen』)をカリフォルニア州で出版し、「東洋のホイットマン」などと賞賛されたヨネは、文筆業での成功を夢見てニューヨークに赴いた。 そのために英語添削者を新聞広告で募集したところ、応募してきたのがレオニー・ギルモアだった。 二人三脚の文筆業は、頻繁な手紙のやり取りと会談で行われていたことが、当時のヨネの書簡からわかるのだそうだ。 最初に取り掛かったのがヨネ初めての小説『日本少女の米国日記』だった。 書簡からは、ヨネがレオニーに積極的な添削を求め、レオニーもその要望に献身的に応えて、この小説はニューヨークで出版される。 ヨネはロンドンに渡り、英米で成功することになるが、それを全面的に支えたのはレオニーであった。
レオニーは、なぜここまでヨネに尽くしたか。 星野文子さんは、レオニーには、英語での小説家として、また、詩人としての成功という無謀な夢を抱くヨネに、芸術家としての素質が見え、そこに惹かれたためではないか、そして、何があろうと、芸術家ヨネを支え続けることこそ、自分の使命と感じたためでないのか、という。
映画で、ヨネ・野口米次郎を演じて、英語でしゃべるのが中村獅童(観客が、その私生活と重ねて見てしまうところが微妙だ)。 レオニーが妊娠したことを喜んで、白い百合の花を買って帰ってきたのに、「嘘だ」と叫んで、百合をぶちまける「悪いヤツ」だ。 1904年、野口米次郎は一人日本に帰り、レオニーはロサンゼルスの母親のところへ行って、男の子を産む。 1907年、日露戦後の排日の動きもあり、レオニーは3歳の子供を連れて、日本にやって来る。 森鴎外の『舞姫』、アンナ・ベルタ・ルイーゼ・ヴィーゲルトの一件を思わせる。 横浜港で出迎え、わが子にイサム(勇)と名付け、住まいと女中、定収入に三人の英会話の生徒を用意していた野口米次郎だったが、実は日本に正式な妻がいたのだった(しかも帰国後の結婚らしい)。 日本では普通のことだと、うそぶくヨネは、「悪いヤツ」である。
レオニーも、監督も、女優も…<小人閑居日記 2010.12.22.>
映画『レオニー』の松井久子監督(64)は7年前に、ノンフィクション作家ドウス昌代さんの『イサム・ノグチ―宿命の越境者』を読んで、レオニー・ギルモアという女性の存在を知り、即座にレオニーの生涯を映画化したいと思ったそうだ。 「米国人の女性が100年前に日本に渡り、一人で子育てをするのはどれほど困難だったか。自分で人生を切り開いていく彼女の姿を、女性たちに伝えたいと思った」と、朝日新聞の諸麦美紀記者に話している。 この松井久子監督の人生そのものが、レオニーに重なるのだ。 その11月3日付朝日朝刊の記事によると、大学を出てすぐに同級生と結婚し、27歳で息子を産んだ。 生活のために始めた芸能雑誌のフリーライターの仕事が順調になればなるほど、物書きを目指す夫と気持がすれ違い、33歳で離婚。 息子の存在が大きな支えとなり、自分で何でも決断するキャリアウーマンの道を歩む。 俳優のマネジャーになり、俳優プロダクションを設立、39歳でテレビ番組の制作会社を立ち上げた。 中学を卒業した息子が留学したいと言い出し、「仕送り地獄」をがんばった。 50歳で撮った監督デビュー作『ユキエ』、5年後の『折り梅』、観客動員数は合せて200万人を突破し、各地で自主上映会が続いているという。
『レオニー』も、製作費13億円を集めるのに6年。 撮影と編集に1年かかった。 脚本は14回、書き直した。 携わったスタッフは400人。 過去2作品の根強いファンと、松井さんの挑戦に共感した女性たちが2005年、支える会「マイレオニー」を結成、賛同金を募り、会員は3千人を超えたという。
『レオニー』には、プロデューサーが3人いる。 アシュク・アムリトラジ、永井正夫、伊藤勇気。 アシュクはインド人、ハリウッドで最も成功したプロデューサーの一人といわれる、ウィンブルドンにも出た元テニスプレーヤー。 伊藤勇気は、ドイツから合流した松井さんの留学した息子、アメリカとの交渉役を務めた。 日常会話程度の英語力で日米合作映画を撮ったという松井監督、監督の製作日誌を読むと、この息子さんの支えが大きかったことがわかる。 レオニー役のエミリー・モーティマーは、日本での撮影を前に妊娠していることが判った。 エミリーは、それを監督に知らせて気を使わせてはいけないと、伊藤勇気プロデューサーだけに打ち明け、最後までひた隠しにしたまま、すべての撮影を滞りなくこなした。 冷たい海で泳がせたり、深夜の坂道を何度も走らせたりした監督は、後でゾッとして、冷や汗を流しながらも、そのプロ根性に感心したという。 半年後、二人目はやっぱりレオニーと同様、女の赤ちゃんだったという知らせを受けた監督は「恐るべし、エミリー・モーティマー!」と、舌を巻くしかなかったと書いている。
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