杉山伸也さんの「福澤諭吉『民情一新』と「文明の利器」」前半2025/01/13 07:06

 第190回福沢先生誕生記念会、記念講演は、杉山伸也名誉教授の「福澤諭吉『民情一新』と「文明の利器」」だった。 昨年8月刊行の著書『近代日本の「情報革命」』(慶應義塾大学出版会)第7章の表題だという。 杉山さんは、今年は昭和100年、戦後80年にあたるが、30年の停滞で実質50年、半世紀といってもいい。 自分は団塊の世代だが、敗戦の1945年から80年前は1865年、明治より前になる、その80年は短いにもかかわらず大きな変化があった。 日本の歴史と貿易の関係が専門だったので、福沢全集はここ数年で読んだ。

 『民情一新』は明治12(1879)年、福沢44歳の作、文庫本で80ページほどのものだが、内容が凝縮している。 インフラ、通信ネットワークの構築、地方自治など。 福沢の主張は、1880(明治13)年前後を境にして、前後に分かれるといわれる。 前期福沢と後期福沢。 1881(明治14)年の政変からは、ジャーナリズムの時代で、『時事新報』などで具体的なテーマを議論している。 その分岐点が『民情一新』で、ストレートに、前向き、楽観的な考え方を展開している。 それは緒方塾の影響が大きく、自然科学の最先端、科学主義、論理的、合理的なサイヤンス(実学)を強調する。 反対に、儒学は虚学だと。 福沢は、学問の要諦は、物事の関わり合う関係性、因果関係だとする。 今で言う文理融合を体験しているのだ。

 歴史の見方。 福沢は1891(明治24)年に書き、晩年の1901(明治34)年に発表された『瘠我慢の説』で、勝海舟と榎本武揚の明治になってからの出処進退を批判した。 これに対する徳富蘇峰の批判を、研究者に引きずられた資料至上主義だと反論して、幕末の実状、時代の感覚を知らないものだと一蹴した。 時代を共有し、歴史の中の今、特定の場所が重要だ。 明治日本は、どういう時代だったのか、産業革命の直後、交通運搬通信革命の時代で、条約改正が重要課題だった。

 福沢は、どういう情報を持っていたか。 取り巻く情況の変化をとらえていた。 三回の欧米体験、特に二回目の遣欧使節が大きかった。 日本を欧米との関係で見られるようになった。 ヨーロッパへの途次、中国(清)やセイロンの住民がどう扱われているかを見て、日本とアジアを実体験し、日本とアジアの相対的地位を認識した。 『西航記』「西航手帳」には、鉄道の記述が多く、電信、新聞その他、「文明の利器」を実際に体験した。