皇后美智子さまの御歌<等々力短信 第1118号 2019(平成31)4..25.>2019/04/25 07:15

末盛千枝子さんの『波』連載「根っこと翼・皇后美智子さまに見る喜びの源」
が、『根っこと翼・皇后美智子さまという存在の輝き』(新潮社)という美しい
本になった。 連載の初回に、大岡信さんが朝日新聞一面の「折々のうた」で
皇后さまの歌を取り上げ、「一貫して気品ある詠風だが、抑制された端正な歌か
ら、情愛深く、また哀感にうるおう歌の数々まで、往古の宮廷女流の誰彼をも
おもわせる」と解説した、硫黄島の歌、
 慰霊地は今安らかに水をたたふ如何ばかり君ら水を欲(ほ)りけむ (平成8年)
があった。 友人の奥様が軍医の父上を硫黄島で亡くされていたことを聞いて
いた私は、その回をコピーして送り、たいそう喜ばれた。 両陛下の、人々の
悲しみや痛みに寄り添い、平和を祈る姿勢は、一貫している。 「往古の宮廷
女流」の言葉通り、皇室には和歌の中心としての伝統があり、毎年一月の「歌
会始」は、重要な行事である。 美智子さまも、昭和34年ご婚約後のお妃教
育の一つとして、歌人の五島美代子さんの指導を受けられた。 五島さんは、
初めに「醜いところをも含めて神に告白する気持でお歌いになるのでなければ
なりません」と教え、歌稿が真っ赤になる厳しい添削があったという。 末盛
さんの本では、随所に美智子さまの御歌が引かれ、輝きを放っている。

 陛下はご結婚に当り、自分にとっては天皇の務めが常に全てに優先するとい
う厳しいお言葉もしっかりお伝えになっており、その陛下のお立場に対する御
心の定まりようこそが、美智子さまを最後に動かしたものだったという。 以
来60年の歳月が流れた。

 かの時に我がとらざりし分去(わかさ)れの片への道はいづこ行きけむ (平成7年)
 ありし日のふと続くかに思ほゆる このさつき日(び)を君は居まさす (昭和42年・小泉信三さんの一周忌)
 土筆摘み野蒜を引きてさながらに野にあるごとくここに住み来(こ)し (平成29年)
 家に待つ吾子(わこ)みたりありて粉雪(こゆき)降るふるさとの国に帰りきたりぬ (昭和46年)
 瑞みづと早苗生ひ立つこの御田に六月の風さやかに渡る (平成2年・皇太子ご結婚)
 わが君のいと愛でたまふ浜菊のそこのみ白く夕闇に咲く(平成3年)
 初夏の光の中に苗木植うるこの子供らに戦(いくさ)あらすな(平成7年)

 10日にご結婚60年を迎えた天皇陛下は、暮の誕生日会見で、「自らも国民の
一人であった皇后が、私の人生の旅に加わり、60年という長い年月、皇室と国
民の双方への献身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労いたく思い
ます」と、涙声で語った。 末盛さんによると、皇后さまはすぐそばに控えて
おられたそうだ。

お札の顔同士〔昔、書いた福沢52〕2019/04/25 07:12

   お札の顔同士 <等々力短信 第570号 1991(平成3).6.25.>

 アンデルセンとともに名高い童話といえばグリム兄弟の『グリム童話集』で ある。 統一ドイツが昨年の10月から出し始めた新しいお札の、最高額紙幣 の表がそのグリム兄弟で、裏がグリムのメルヘンの女の子の絵なのだそうだ。 一番流通量の多い100マルク紙幣の顔はクラーラ・シューマン、つまり文化 人を並べたところは、福沢諭吉、新渡戸稲造、夏目漱石の日本と、同じ路線で ある。

 このドイツの新紙幣のことも、一万円札福沢諭吉がグリムの兄の方ヤーコブ に会ったという話も、雑誌『サライ』4/18号の小塩節(おしおたかし)さ んのインタビューで知った。 小塩さんは中央大学独文科の教授で、前駐西ド イツ公使だそうだ。 文久二年、1862年、遣欧使節の通訳としてドイツに 行った福沢諭吉は、他の二人の日本人外交官とともに、人文科学の基礎を作っ た人というのでグリムを訪ねていく。 片言の英語とオランダ語で、いろいろ な話をしたという記録が残っているのだそうだ。 この時すでに、弟ウィルヘ ルムは亡くなっていたのだが、グリム兄弟は日本に強い関心を持っていて、鎖 国中の日本からオランダ商人やシーボルトがもたらした情報を集めて、日本の 法律体系や刑罰について知っていたし、民話集には日本の話も入れているとい う。 刀を差した侍たちも、童話は知らなくても、学者としてのグリムの存在 は知っていて訪ねたわけで、これこそ文化交流ではないかと、小塩さんはいっ ている。 

 福沢の側からこの話を聞いたことがなかった私は、二、三の本にあたった後 で、桑原三郎先生の『諭吉 小波 未明』(慶応通信)に、たどりついた。  児童文学と福沢諭吉なら、まず桑原先生だったのに、それに気付くのが遅れた のである。 この本の 229頁には、高橋健二さんの新潮選書『グリム兄弟』に 「ヤーコブ・グリムを訪問した日本人が居るのだが、それが誰だかわからない 然し遣欧使節団中の一員だから、福沢諭吉であった可能性が強い」と記されて いることが、ちゃんと紹介してあった。 前に読んだはずなのに、まったく忘 れていたのである。

 小塩節さんの『サライ』の記事を、桑原先生にお知らせしたら、興味深く拝 読というご丁寧なお礼状を頂いたが、「福沢側の資料には確信をもって会った と判断出来るものはないようです」とあった。 だから小塩さんの、グリム側 の資料にあるらしい、根拠には興味がある。

五十にして〔昔、書いた福沢51〕2019/04/24 07:10

    五十にして <等々力短信 第564号 1991(平成3).4.25.>

前回、調べてみると、いろいろ面白いことが分かってきたと書いたのは、こ ういうことだった。 土橋俊一先生からご指摘を受けた日の夜すぐ、近々「等 々力短信」で訂正しますという、お礼の手紙を書いて投函した。 翌朝、会社 に出て『小泉信三全集』の年譜を見て、びっくりした。 福沢諭吉全集の完成 記念会が、昭和39年4月29日になっていたからである。 あわてて土橋先 生にお知らせしたら折り返し、『小泉信三全集』の校正ミスに驚かれつつも、 記念会が4月9日であったことを証明する、新たな証拠のコピーを二つ送って 下さった。  『慶応義塾百年史』付録の慶応義塾年表と、「三田評論」昭和 39年7月号の千種義人教授撮影のグラビアである。 4月9日という説明の ついた写真の一枚では、たしかに松永安左ェ門さんがスピーチをしている。

 運よく近所の図書館に『松永安左ェ門著作集』(五月書房)があった。 そ の第六巻の年譜(白崎秀雄さんの誤りの原因となった電力中央研究所刊『松永 安左ェ門翁の憶い出』の年譜を参照したという)をみると、やはり「四・二九  勲一等瑞宝章を贈られるも受(ママ)章式には欠席、この日パレスホテルで おこなわれた福沢全集完成記念会に出席し、高村塾長、小泉信三、富田正文ら に編纂の労をねぎらう」とあった。

 当時の新聞の縮刷版を見てみたら、意外なことが判明した。 この時の叙勲 が戦後第一回の生存者叙勲で、たしかに発令は4月29日だが、大勲位菊花大 綬章の吉田茂氏を始めとする、勲一等以上の親授式が皇居で行なわれたのは、 5月6日のことだった。 その日、対象者22名の内19名が出席した。 私 も孫引きした「松永一人だけが出席しなかつた」という白崎さんの記述も、事 実に反するようだ。

 その年譜の誤りを発見することになったけれど、『小泉信三全集』を参照し たおかげで、福沢諭吉全集完成記念会での小泉信三先生の素晴しいスピーチを 知った。 当初小泉先生は、富田正文先生がこの編纂を引き受けてくれれば、 事業は成功すると確信して、「富田さん、東西を問わず学者がライフワークの 着手に早すぎたという例は一つもきいていません。 何時も誰れも彼れも皆な 晩すぎて、日暮れて途遠しの嘆をくり返すのです。 貴兄は五十だが、どうで す、この辺でライフワークに手をつけては」と説いたのだそうだ。 私も同級 生たちも、まもなく五十、最近のダイヤモンドの五十歳広告だけに、心まどわ されている場合では、なさそうだ。

訂正二件〔昔、書いた福沢50〕2019/04/23 07:15

   訂正二件 <等々力短信 第563号 1991(平成3).4.15.>

 ちょうど一年ほど前、「上野毛散歩」という一文を草して、五島美術館の庭 で、こぶしの巨木の満開に遭遇して、感激した話を書いた。 白崎秀雄さんの 『耳庵 松永安左ェ門』を三度にわたって紹介したため、珍しく五島美術館を 覗いてみる気になった余慶だったから、「来年はぜひ」といえば、「鬼」が笑 うかな、と結んだのだった。

 あれは春の早かった去年の、3月18日のことだった。 頃を見計らって3 月21日に、大こぶしに会いに行った。 庭園拝観料100円を払い、期待に 胸を弾ませて裏庭に降りる。 だが、こぶしの咲いているはずのあたりが、や けに暗い。 近寄ると、まったく咲いていないのだ。 もう咲いてしまったの か、まだこれからなのか、あるいは枯れてしまったのか。 入口にとってかえ して、受付の女性に尋ねると「当館のこぶしは三年に一度咲きます。 去年咲 きましたから、つぎは再来年です」という答。 瞬間、耳の大きな「鬼」の笑 い声を、聞いたような気がした。

 『五の日の手紙2』を読んで下さった土橋(つちはし)俊一先生(富田正文 先生とともに『福沢諭吉全集』を編纂された)から、長文のお手紙で、ご感想 を頂戴した。 おおかたは、著者を激励する過褒のお言葉であったが、一箇所 訂正して貰いたいという、鋭いご指摘もあった。 それは私が『耳庵 松永安 左ェ門』を鵜呑みにして、松永さんは昭和39年4月29日、勲一等の宮中で の親授式を欠席して、近くのパレスホテルで開かれた福沢諭吉全集の完成記念 会に出席したと、書いたことについてだった。

 土橋先生によれば、福沢全集の記念会は4月29日ではなくて、4月9日に あった。 お手紙には、当日先生が記念に贈られた写真アルバムの「先師をし て見せしめば 福沢諭吉全集完成祝賀会記念写真 昭和三十九年四月九日 小 泉信三記」という小泉先生の筆跡のコピーまで、証拠として同封されていた。 土橋先生は『耳庵 松永安左ェ門』刊行直後、新潮社にも訂正方を申し入れら れたそうで、「このことは後世の人々に妙に勘ぐられては松永さんも不本意で ありましょう 事実は著者白崎さんの單純なミスで「孫引き」のこわさを教え てくれる好箇の事例とも申せましょう」とのご指摘に、私が恐れ入ったのは、 もちろんだ。 調べてみると、親授式が5月6日だったり、いろいろ面白い事 実も分かってきたのだが、結論は間違いだった。 ここに『五の日の手紙2』 251頁の記述の誤りを、お詫びして、訂正する次第である。

    …脚注 …

 等々力短信 第563号で訂正した原文は、次の通りである。  「五島美術館の裏庭は、多摩川に下る傾斜地に位置しており、今度初めてぐる りと一周してみて、けっこう広いことがわかった。 本館をまっすぐ降りると 石仏や道祖神、燈篭や石塔の類が、たくさん蒐められている一角がある。 崖 下の水辺を通り、小さな門をくぐって、再び登りにかかった。 見上げて、ハ ッと息を呑む。 空いっぱいに枝を広げ、いちめんに白い花をつけた、大木が おおいかぶさっている。 大「こぶし」であった。 天然記念物にも指定され ている。 開きかけの、一番いい時期に巡り会った。 三月十八日、日曜日の ことである。 耳庵の徳、ここに及ぶという次第。 「来年はぜひ」といえば 「鬼」が笑うかな。」 (等々力短信 第527号「上野毛散歩」1990.4.5.)

「白崎さんの本(白崎秀雄著『耳庵 松永安左ェ門』新潮社刊)に、こんな話 がある。 松永さんは九十歳の昭和三十九年四月二十九日、それまで固辞して きた勳一等瑞宝章を受けた。 勳一等は宮中で天皇陛下から親授される。 当 日、松永さんだけが欠席した。 松永さんはその日、皇居と目と鼻のパレスホ テルで行われた、福沢諭吉全集の完成記念会に出席し、高村象平塾長、小泉信 三、富田正文氏らの編纂の労をねぎらっていたという。 戦後自ら予想してい た混乱が回避できたのは、天皇のおかげと認識して、志木に近い柳瀬山荘五千 坪と高価な所蔵美術品多数を国立博物館に寄贈した松永さんだから、ただの皇 室軽視ではない。 福沢への思いがそれよりも深かったということなのだろう か。」 (等々力短信 第524号「鬼のおかげ」1990.3.5.『五の日の手紙2』 (私家版)251頁)

福沢のワッフル〔昔、書いた福沢49〕2019/04/22 08:05

   福沢のワッフル<等々力短信 第557号 1991(平成3).2.15.>

木村摂津守喜毅(よしたけ)が、咸臨丸でアメリカから持ち帰った品物の中 に、ワッフルを焼く金型があった。 桂川家にも土産にしたので、桂川甫周の 書いた「ワーフルの方」なるものが残っている。(今泉みね『名ごりの夢』)

 「鶏卵百目、数十二三程、砂糖百目/麺粉(めんぷん)五十目或は七八十目/ 先づ砂糖をよくすり、次に鶏卵をわり入れ猶又よく摺り、後麺粉少しづつ入る」

 西洋菓子を作るのだという日には、殿様も奥方もたすきがけの大騒ぎ、時間 など誰もかまわないという、半分遊びののんきな仕事で、十回に一度位しかう まく焼けなかったものだそうだ。

  福沢諭吉もワッフルを焼いた、という記録を見つけて嬉しくなった。 『瘠 我慢の説』の付録、木村芥舟喜毅の福沢追悼文が素晴しいことは、前に書いた ことがある。 その中にワッフルの一件が出てくる。 福沢の親友に高橋順益 (じゅんえき)という医者がいた。 いつもふたりで木村の家を訪ねては、おた がいに面白いことを言い合って、周りの者を笑わせたりしていた。 木村夫人 がワッフルを焼いているのを見た福沢は、これはとても面白い、私も器械を借 りて行って、一つやってみたいという。 翌日木村の老僕が届けると、福沢お おいに喜んで、みずから麺粉と鶏卵を混ぜて焼き始めた。 そこへ高橋もやっ て来て見物していると、卵の量が多過ぎたのか、パチパチとはね出して、福沢 の着物はもちろん、高橋にも飛沫がかかった。 高橋がいつもの悪口を言いだ したので、福沢は黙って見ていろ、そのかわり鰻飯をおごるからと言ったので、 高橋はまんまと鰻のご馳走にありついたという。 このエピソードは、当時で も、うなぎが、かなりのご馳走であったことを伝えている。 高橋順益は惜し いことに、若死したらしい。

 高校時代に知り合い、今は岩手の豊かな自然の中で子育てをしているガール フレンドが、昨年暮、マドレーヌを焼いて送ってくれた。 手作りのお菓子に 込められた気持が嬉しかった。 年末年始の休みに(ちょうど、そんなものが 食べたい時期なのだ)おりにふれて、家内とお茶にした。 桂川や福沢の焼い たワッフルは、「カステラのようなもの」と、今泉みねが書いているところを みると、今のワッフル(クリームやジャムをはさんだ)より、マドレーヌに近 いものだったのではないかと思う。