貧しく尊い表現の恩師「セルジオとピエロ」2019/04/13 07:12

 ヤマザキマリさんの『男子観察録』に、貧しく尊い表現の恩師「セルジオと ピエロ」があり、そこにガルシア=マルケスの『百年の孤独』が出てくる。 マ リさんが、十代で油絵を学ぶためにイタリアに留学して2年近く、雨のフィレ ンツェの街をみすぼらしい格好で歩いていると、様々な大きさの抽象画が飾ら れている、画廊というにはいかにも惨めな佇まいの建物があった。 中を覗い て、狭い空間の片隅に座っている、茶色のコーデュロイのスーツ姿の中年男性 と目が合った。 柔らかい声で、中に招き入れられた。 アルゼンチンから亡 命してきたセルジオというその人は作家で、姉と、戦後のフィレンツェの文壇 で活躍したピエロ・サンティという老小説家と、3人で一緒に暮らしており、 「ウプパ(ヤツガシラ)」という名の、その小さな画廊兼書店を細々と営んでい た。

 ウプパは外観も中も薄汚れた寂しい佇まいの空間だったが、そこを訪ねてく る人達はフィレンツェの文壇や芸術界を担ってきた珠玉の文化人達であり、寒 かろうと汚かろうとそこでは週に何度も、主催者であるピエロ・サンティを囲 んで、興味深い集会が繰り広げられていた。

 マリさんは、食料を買うお金もなく、帰りのバス代もなく、虚ろに雨の中を 歩いている最中に見つけたその場所へ、気が付くと足繁く通うメンツの一人に なっていた。 ウプパに集う人々の様々な話に知的好奇心を掻き立てられ、自 国日本の文化について聞かれても何一つ気の利いた答えの返せない無知な自分 を恥じて散々苦しみ、政治の論議が炎上して取っ組み合いになってしまったお じさんや爺さん達をドキドキしながら眺め、セルジオやピエロ、そして彼らの 友人達から薦められる書物を貪るように読むようになっていた、という。

 ウプパに通い始めた頃、誕生日を迎えたマリさんに、セルジオが一冊の本を 渡してくれた。 それはガルシア=マルケスの『百年の孤独』だった。 表紙 を捲ると「マリへ。あなたは読んでおいた方がいい本だと思うからこれにした。 同じ南米の作家ではあるけど僕はあんまり好きではありません。でもあなたは きっと気に入ると思う」といった趣旨の言葉がセルジオの字で書き添えられて いた。 マリさんは、その作品を皮切りに、ガルシア=マルケスのありとあら ゆる書物を読み漁るようになっていった。

 マルケスはその当時、様々な精神的葛藤にもがいていた20歳前後のマリさ んを支え、その後何年も経ってから漫画家になって更なる精神的葛藤と向かい 合わねばならなくなった時も、バランスを崩しかけていたマリさんを補強して くれた。 でも何よりも忘れてならないのは、この作家はマリさんにとって、 セルジオが残してくれた画廊ウプパの大事な痕跡であることだ、とマリさんは 書いている。 画廊ウプパは、マリさんにとってイタリア留学での本当の意味 での学校であり、セルジオとピエロの二人は、マリさんにとって表現者という 生き方を選んだ人間のあり方を教えてくれた、掛け替えのない教師たちだった、 とある。

ヤマザキマリさん観察の十八代目中村勘三郎2019/04/12 07:04

 3月25日の「等々力短信」第1117号に書いたヤマザキマリさんの『男子観 察録』(幻冬舎文庫)で観察された男子の一人に、十八代目中村勘三郎がいる。  「地球上の全てに興奮する、宇宙レベルの粋人」という最上級の見立てである。  十八代目夫妻は、世界で訪れていない場所はないのではないかというくらい、 ありとあらゆる国をプライベートで旅行していて、その頃ポルトガルのリスボ ンで暮していたマリさんと出会った。 その時、話題がコロンビアの作家ガル シア=マルケスの『百年の孤独』に及んだ。 十八代目(勘三郎さん、とマリ さんは書く)は、旅をしながら読み進めているという『百年の孤独』の面白さ と興奮を、ありとあらゆる表情筋や仕草を駆使して放出させ、マリさんは、自 分以外で初めて体裁を気にせず胸中の高揚を全身全霊で表現する「日本人」と 出会って大変嬉しくなった。 二人は深夜のレストランで唾を飛ばし合いなが ら「マルケス万歳」と絶賛し合い、意気投合した。

 十八代目は、普通に喋っていてもその顔つきはバラエティーに富んでいて、 下手をしたらイタリア人の表情なんかよりずっと多様で味わい深い。 そのく るくる変わる表情は、この人の内面に潜んでいるインテリジェンスや並々なら ぬ繊細さを意味するものでもあった、という。

 「勘三郎さんは、人であろうと自然であろうと、とにかく常に地球上に存在 する様々なものから触発されることを求めている人だった。だから沢山の人と 積極的に会い、地球上を旅し、様々な書物を読む。地球という惑星上で起こり 得る全ての現象に対して満遍なく興味を示す。通常、それだけ沢山の情報を吸 収すると、間違いなく消化不良を起こして大変なことになってしまうだろう。 だからものを創る多くの人は、ちょっとずつ新しいものをつまんでは、その味 をゆっくりと確かめるように生きているのだと思う。だが勘三郎さんは巨大発 電機なのでそうはいかない。いっぺんに沢山の刺激を取り込んでは、それらを 猛烈なエネルギーに変換して、常時発電し続けている。そのメンテナンスたる や、きっと並大抵の体力や精神力では務まらないだろう。」

 ヤマザキマリさんは、十八代目のことを、溢れてくる感情を不必要に抑えず、 出し惜しみもせず、体裁構わず純粋に外部へ放出させる、そのかっこよさには、 ただもう感動するしかない、と言う。

『中村勘三郎楽屋ばなし』の慶應義塾2019/04/11 07:21

 『中村勘三郎楽屋ばなし』に、慶應義塾が出てくる。 「兄、吉右衛門のこ と」の章には、「親父さん」六代目菊五郎と「兄」初代吉右衛門が、何によらず 正反対だった話がある。 六代目は声はよくなかった、兄は名調子と言われた。  六代目は太ってて、兄はやせている。 六代目は汗かかずで、兄は汗っかき。  六代目宵っぱり、兄早寝。 踊りの名人と、踊らない役者。 軽妙洒脱と謹厳 実直。 贔屓筋もはっきり二派に分れてて、客席も真っ二つに分れちゃうんで、 まるで早慶戦みたい、すごい熱気だった。

 早慶戦といえば、六代目は野球好きで、慶應贔屓だったから、ある時、早慶 戦の前日に慶應野球部へ鰻を五十人前届けたら、翌日勝ったというんで、それ からはずっとそれが吉例になった、という。 「吉右衛門の孫達、今の幸四郎 も吉右衛門も学校は早稲田でしょ。今でも片っ方だけ早慶戦が尾を引いてるん だね。」と、十七代目は語っている。

 「友達のこと」の章に、「八百屋会の人たち」というのがある。 歌舞伎座の 近くに二葉寿司という寿司屋があって(今も二葉鮨という店があるが、それ か?)、慶應の芝居好きの学生の溜り場になっていた。 二葉寿司の親父さんが、 十七代目の楽屋に来て、学生さんたちが会いたがっていると言って以来、ほん との友達づき合いをしてくれたのが嬉しかった。 そのグループが「八百屋会」 という名で、野菜の名の渾名のついている人が多かった。 鈴木って人はスイ ッチョから「キュウリ」、瀬味次郎は「キンカン」(この人、京橋で印刷屋をし ていたが、残念ながら戦死した)、三井の重役になる小池悌四郎は勉強がよくで きたから渾名なし、今村の水無飴の息子今ちゃん「ヒネショーガ」、木綿問屋の 息子で父親が芝居好きの杉浦勘三郎、十七代目は言いたくないけど役者だから 「ダイコン」。 二葉寿司の親父さんが「カボチャ」で、娘が生まれたら、ほん とに「お里」とつけちゃった。 この「カボチャ」が、よっぽど慶應義塾って 学校が好きだったとみえて、自分の子供にも、上から慶一郎、應次郎、義三郎 とつけた。 塾がないね、と誰かが言ったら、とうとう犬につけちゃって、「ジ ュク! ジュク!」と、塾なんていうおかしな名前の犬を飼っていた。

 その「八百屋会」の連中が、十七代目をよく山へ連れてってくれて、当時、 役者で北アルプスなんかに登っているのは、ぼくだけでしょう、と語っている。  鹿島槍に三度も登ってて、熊に出くわしたこともある。

 「八百屋会」に一人、飛び入りの帝大生がいて、義太夫を語ったりするので 仲間になった寺中作雄、のちに文部省の教育局長から国立劇場の理事長にまで なった。 教育局長時代、兄の吉右衛門が何かの用事で文部省を訪ねた。 立 派な部屋で、相手は偉い役人と思うから、ハハーッと、ほとんど平伏に近いお 辞儀をして、ふと目を上げると、弟である十七代目の松王丸の写真が飾ってあ る。 なぜここにお前ごとき者の写真が飾ってあるのかと、ひどくびっくりし たと、吉右衛門が話したので、十七代目は内心得意だったという。

御曹司派と三階派、中村小山三2019/04/10 07:20

 歌舞伎のことを描いた落語、例えば柳家小満んの「中村仲蔵」で役者の階級 と年収の話が出る。 「千両役者」は千両二分二朱一本(二百文と言った。一 本は銭緡一本に差した銭100枚、1文銭で100文、4文銭で400文だそうだか ら、二本だったか?)。 千両役者は江戸三座で、各一、二名。 名題は、四、 五人、500~300両。 名題下、相中は、30~20両。 中村仲蔵は子役だった が15,6歳で一旦辞め、どうしても芝居がしたくて19歳で改めて旧師匠伝九郎 の所へ行く。 中村座の一番下っ端の立役、年7両の稲荷町(楽屋に祀ってい るお稲荷さんの奥の暗い部屋)から散々苦労したが、団十郎の声掛かりで中通 り(名題下の三階級の中位)に上がって大部屋へ。

 大部屋に入ると、台詞がつく。 「申し上げます。○○様、お着きでござい ます」 中通りになると、体は暇になる。 もう世帯を持っていたので、家で 下駄の下拵えの内職をしていた。 ある時、ご家老役の団十郎に、「申し上げま す。」と言って、あとを忘れた。 団十郎の所へつかつかと寄り、耳元で「親方、 台詞を忘れました」と言うと、「心得た。これへと申せ」 謝りに行くと、「役 者は機転が利かなくちゃあいけない、よくやった。いい役者になれ」と言われ た。 すぐ内職を断わった。 それからは、ひと様の芝居をよく見て、芸熱心、 芸気違いといわれるようになり、29歳で名題に昇進した。 大部屋出ではなれ ないはずの名題まで出世したのは、初めてのことだった。 屋号は栄屋、俳号 は秀鶴という。

 現代の歌舞伎で、この役者の階級が、どうなっているのか、その一端が、関 容子さんの『中村勘三郎楽屋ばなし』で垣間見られた。 「友達のこと」の章 で、十七代目中村勘三郎が子役のころのいたずら仲間として、志げると琴次郎 を挙げている。 二人とも本来は六代目菊五郎の弟子の身分だったのだが、六 代目の引き立てがあって、それぞれ後に志げるは西川流家元西川鯉三郎、琴次 郎は尾上流家元尾上菊之丞になっている。 十七代目は、「ぼくはこれでも御曹 司派になるんで、封建的なことを言えば一緒に遊ぶような身分じゃない。しか しぼくはどちらかと言うと三階派の子役のほうに親しみを持ってたし、向うも そんなぼくを煙ったがらなかったからね。三人でよく遊んだものです。」と語っ ている。 あるとき鯉三郎の志げるに、「坊ちゃんなんて呼ばないで、波野さん て呼んでよ」と言うと、翌日そっと「昨日はほんとにどうも有難う。嬉しかっ たです。それならぼくのことは星合と呼んで下さい」なんて手紙を渡したとい う。

 十七代目の大阪時代、九州の宮崎に旅興行に行った。 一番荒れているころ で、相変わらず酔っ払っていて、弟子の蝶吉(小山三…長く中村屋に仕えた人 で、十八代目や現勘九郎・七之助に密着したテレビでよく見た)をつかまえる と、「おい、花札やろう」って言った。 「わたし、花札なんか知りません」「そ んなことはないよ、三階で皆やってるじゃないか」「でもわたしは知りません」 なんて押し問答になったんで、十七代目は癇癪を起して、そばにあった置時計 をいきなり投げつけた。 するとそれが障子を突き抜けて、下を流れている川 にポチャンと落っこっちゃった。

 中村屋のあるところ常に小山三がある。 六歳が初舞台で、そのとき十七代 目は少年だったが、小山三の顏がカニに似ているというので、この幼い弟子に 書き抜きを包むための、黒地に白の絞りでカニの模様の美しい袱紗を贈ってく れたことを、小山三ははっきり覚えているという。

 昭和57年4月、新橋演舞場の新装開場の杮葺(こけら)落しの日、十七代 目はめでたく「式三番(しきさんば)」の翁をつとめたが、幕が開くと翁につく 後見が、厳粛に火打石を打って舞台の四隅を浄めて回る。 空気のピンと張り つめた客席に向って、最後に正面切って立ち、石を打つ小山三の晴れ姿が、関 容子さんには、ボッとにじんで見えたという。

 昔、市村座の三階には、真ん中に囲炉裏の切ってある六畳ほどの部屋があっ た。 そこにはいつも大鍋がかかり、「菜番(さいばん)」と呼ばれる当番が煮 炊きをして、幹部以外の役者たちはそこへ来て、めいめい食事をしたものだそ うだ。 一階ごとにそれぞれの長(おさ)のような役者が自然に決り、目を光 らしているから、大部屋の人たちの鏡台前も、キチンとかたづいていた。 中 二階は女形ばかりいるところで、昔の役者は女形のことを「お中二階」と呼ん だものだという。

吉右衛門と高浜虚子「ホトトギス」2019/04/09 07:27

 3月の末に書いていた関容子さんの『中村勘三郎楽屋ばなし』だが、「兄、吉
右衛門のこと」の章に、俳句のことが出てきたので、書いておきたい。 大分
前に、新橋演舞場で「秀山祭大歌舞伎」を観て、「秀山」が初代吉右衛門の俳号
で、初代が「ホトトギス」で師事した高浜虚子は、吉右衛門で名が通っている
のだから吉右衛門のままがいいでしょうと言ったとかで、『吉右衛門句集』など
句集三冊を刊行していると書き、その句を何句か紹介してはいた。 
「秀山祭」と初代吉右衛門の俳句<小人閑居日記 2010. 9.19.>
http://kbaba.asablo.jp/blog/2010/09/19/

 『中村勘三郎楽屋ばなし』で、歌舞伎俳優と俳句の関係が深いことがわかる。
十七代目中村勘三郎の父、中村歌六は本名を波野時蔵、俳号を獅童といったと
いう。 大河ドラマ『いだてん』で金栗四三の兄をやっている中村獅童に通じ
ているのだろう。 初代吉右衛門は、句会で披講のときに自分の句が読み上げ
られると、「秀山」を使わずに「吉右衛門」で通していたとある。 吉右衛門の
俳句が、「ホトトギス」で初めて高浜虚子に採用されたのは、昭和7(1932)年
で、
  家土産(いえづと)にかぼちやもらひし夜汽車かな
の一句だった。

 昭和8年1月28日の「日記」には、高浜虚子と吉右衛門、その門弟二、三
人とで伊豆へ吟行している。 「大磯より乗る。……宿(露木旅館)へ着く。
小生は早く御膳、御膳と、女中に頼む。部屋は三階、海の真中に見える島は何
島ですかと聞くと、先生があれは初しまですという。七三郎が椿の産地です。
先生が初しまというが宿の者は初じまといいますと、話している。暫く皆は
句帳を手にして無言である。庭の前に広いベランダがある。海が大きく見ゆる。
この家では一番眺めの良い座敷に違いないと思った。床の間には大伍(池田(池
田弥三郎さんの叔父))さんと坪内(逍遥)先生の、仁左衛門(先々代)の片桐
の画賛半折が掛けてある。」

 昭和12年になると、俳人としての地位もかなり固まったらしくて、虚子の
出身地松山での六月句会に選者をつとめている。
 「……ホトトギス派の俳人が披講をしたり、我ら一ぱし俳人になりすまして
いたのもおかし。その時の心持は役者で来たより、俳人が句作旅行に来たとい
う感があって、何ともいえぬおかしさ。……披講の時の先生の真似をして沢山
取って上げた。皆々大喜びで引き上げた。」

 昭和18年には、芭蕉翁百五十年を記念して虚子の『芭蕉嵯峨日記』を劇化
上演した芝居で、俳聖芭蕉を演じた。 三幕目、蚊帳の中に蒲団が三つ敷いて
あり、芭蕉を真中に、去来(男女蔵)と凡兆(三津五郎)が寝る。 真中の蒲
団だけが木綿で、両側はスフであるらしく、男女蔵と三津五郎が冷たい、冷た
いと言う。 そこで、一句。
  凡兆と去来のふとん冷くて

 (虚子選となり)「ホトトギス」に採用が決ると、雑誌に出る前に誰かが本人
に知らせることがあったらしい。 あるとき吉右衛門の句が四句出ることにな
ったというんで、こりゃあもう前代未聞のことだって、お祭り騒ぎになった。 
当時大磯にいた、吉右衛門のところに友達や弟子たちが集まって、大宴会が始
まろうとしていたところに、十七代目中村勘三郎宛の電報が届いた。 「キミ
ノクガホトトギスニ五クデタ」。 兄の吉右衛門はたちまち顔色を変えて、
「な、なんだって、お前は日頃ちっとも勉強なんかしないで、いわばまぐれじ
ゃないか。冗談じゃねえ。棚からボタ餅どころか、あくびした口へボタ餅じゃ
ねえか」って、大変なお冠り。 もう御馳走どころじゃなくなって、宴会はお
流れになった、という。 その時の十七代目の五句、ちゃんとソラで言ってい
る。
  つくばひに水なき夏の旅籠かな
  ホタル籠吊ってくれたる宿屋かな
  中庭に夏の月あり佐賀の宿
  草いきれ立看板は吉右衛門
  打掛をかけて昼寝の源之助