中津・小倉・下関・萩の旅(2)〔昔、書いた福沢120-2〕2019/10/02 06:28

             小倉から下関へ

 小倉のホテルクラウンパレスに泊り、二日目の8日(日)は、小倉城の隅に ある松本清張記念館からスタート。 松本清張は現在の北九州市小倉北区生れ、 43歳の昭和28年『三田文学』に書いた「或る『小倉日記』伝」で芥川賞を受 賞して上京、作家活動に専念した。 再現されている二階建ての書庫、約三万 冊という膨大な蔵書に目を奪われる。 門司へと向かう道が、案外の山中なの に驚く。 先日、下で自衛艦が衝突し火災を起こした関門橋を渡り、下関へ。 安徳天皇を祀る赤間神宮で、平家一門の墓や耳なし芳一堂を見る。 高浜虚 子の句碑<七盛の墓包み降る椎の露>があった。

  冬立つやあはれ小さき平家塚

 春帆楼の隣の日清講和記念館を見学。 日清戦争の明治28(1895)年春、 伊藤博文と李鴻章が交渉し十一か条の講和条約(「下関条約」)を結んだ場所だ。 前日、川崎勝理事(一泊の参加)に見てくるようにいわれた李鴻章の座った 位置、「李鴻章の道」も確認する。 日本側は、目の前の関門海峡に軍艦を通過 させて威嚇したらしい。 狙撃事件後の李鴻章は、大通りを避け、山沿いの小 径を往復したそうだ。 下関といえば河豚(ふく)、名前だけは知っていた春帆 楼で、昼から贅沢な「ふくづくし」となった。

  ふく食ふや春帆楼の昼日中

 関門海峡を見はるかす壇の浦、みもすそ川公園には長州藩が四カ国連合艦隊 を砲撃した八十斤カノン砲のレプリカが並んでいた。 ヘレン・ボールハチェ ットさんが百円玉を入れると、発射音が三回轟き、砲身から煙(蒸気)も出る ことを発見、みんなで楽しむ。

  小春日の関門海峡光る河

 下関から東北へ24キロ、奇兵隊の本拠地、吉田清水山にある高杉晋作の墓 と東行庵(とうぎょうあん)へ。 晋作の愛人だったおうのが、再び紅灯の巷 に戻っていたのを、頭を丸めさせて梅処尼とし、この地で菩提を弔わせること にしたのは「井上馨や伊藤博文のしわざ」という。 本心はどうだったのだろう。 15年後、福沢に大きな影響を与えた明治14年の政変も「井上や伊藤のしわざ」だったことを思う。

  紅葉して晋作行年二十七

 やや色づいてきている秋吉台を眺め、秋芳洞を出口の黒谷口から入口へ向か って約一キロを歩く。 二日目の立派な宿、長門湯本温泉の大谷山荘に着いた。

「福沢学・「耳学問」のすすめ〔回顧 土曜セミナー〕〔昔、書いた福沢119〕2019/09/30 07:14

『福澤手帖』第135号(2007(平成19)年12月)の「福沢学・「耳学問」のすすめ〔回顧 土曜セミナー〕」。

 福澤諭吉協会の会員として私が自慢できることといえば、1973(昭和48) 年11月10日に三田の塾監局会議室で開かれた第一回の「土曜セミナー」を聴 いていることだろう。 卒業してまだ8年しか経っていない時で、当然参加者 の中では一番若い方だった。 芳賀徹さんが「福澤諭吉の文章」について話さ れたが、その5年前に中公新書『大君の使節―幕末日本人の西欧体験』を出し た芳賀さんはまだ東大の助教授で、若手バリバリの研究者が資料を博捜した名 講演という感想を持った。 しかし講演後コメントした高橋誠一郎先生の「少 年時代、福沢家の広くて静かな書庫に一人入り込んで、手当たり次第雑多な本 をぬき出して読んだものだ。福沢先生が時折顔を出して『何か面白いものが見 つかったか』と声をかける。実は先生に見せられない黄表紙を読んでいた」と いう経験談には、さすがの芳賀さんも苦笑するしかなかった。 三田の台に黒 髪を風に薫じさせていたその頃から、頭が光を放つようになった現在まで30 年余、「参加することに意義がある」というオリンピックの精神で、ずっと「土 曜セミナー」を拝聴してきた。 鈍重に継続するというのが、私のやり方だ。  どういう人だかわからないけれど、いつもいる人ということで、この原稿も依 頼されたのだろう。 芳賀徹さんは、あと二回講師を務められている。 第三 十五回の「福澤の『西航手帳』をめぐって」と、平成15年の総会記念講演「福 澤諭吉と岩倉使節団―彼らは西洋文明をどうとらえたか―」である。 三回以 上講師をなさったのは、もうお一人、福沢の西航巡歴の実証研究で知られた山 口一夫さんの四回である。 福沢研究が自治省の事務次官までされた山口さん の余技だったことは、研究者でない協会会員に勇気を与えるものだった。 あ のご温顔が懐かしい。 「土曜セミナー」には、素晴しい方々が講師で来られ たし、参加していらっしゃる方々も素晴しかった。 質問すれば何でも分かる 「歩く福沢事典」の富田正文先生のお話を伺えることも楽しみだったし、おそ らくセミナーの企画も担当されていたのだろう土橋俊一さんの名司会ぶりも忘 れられない。

私事を申せば、父の創業した零細なガラス工場を、塾出身の兄と経営してき た。 零細企業だから「土曜セミナー」のある土曜日は当然会社があったのだ が、私のいわゆる「福沢さんの会」は特別で、次男坊のわがままを許してもら ったのは有難かった。 「福沢さん」の名は、大手を振って外出する黄門様の 印籠のようなものだった。 高校生だった1958(昭和33)年、慶應義塾創立 百年の年に出版された甲南大学の伊藤正雄教授の『福沢諭吉入門―その言葉と 解説』(毎日新聞社)によって、私は福沢諭吉に出会った。 福沢に興味を持っ た私に、父はちょうど刊行され始めた『福澤諭吉全集』を買ってくれた。 そ して『福澤諭吉全集』の読者に送られて来た案内によって、私は福澤諭吉協会 に参加させてもらうことになったのだった。 伊藤正雄先生は第二回に「『福翁 百話』に見る福澤晩年の思想」を話され、その後も「土曜セミナー」できちん と背筋を伸ばしたお姿をお見かけしたが、ついにお声をかけて、福沢入門のそ も馴れ初めについてお話することが出来なかった。 いま思えばまことに残念 で、その伊藤正雄さんが7月に亡くなったことを知ったのは、1978年9月16 日の第十六回「福澤諭吉と子供の本」での桑原三郎先生のお話からだった。

慶應志木高校で英語を教えていただいた野口福次先生にはいつも「土曜セミ ナー」でお目にかかった。 「よくいらっしゃいますね」とご挨拶すると、「耳 学問で」とおっしゃった。 これはいいと、私もそれを頂戴して、「耳学問」を 決め込むことにしたのである。 昨年12月9日、坂野潤治さんの「幕末・維 新史における議会と憲法―交詢社私擬憲法の位置づけのために」(『年鑑』33号 の一覧表記載の題は、当日こう変更された)で第百回を迎え、総会記念講演三 十一回を加えた百三十一回のほとんどを「耳学問」することによって、私の福 沢諭吉像、福沢学は形作られてきた。 本で読んだものの歩留まりは怪しいけ れど、文字通り謦咳に接し、肉声で語られる「土曜セミナー」は、血となり肉 となったように思う。 なんとも有難い機会なのであった。 ついでに「土曜 セミナー」は福澤諭吉協会の会員が対象だけれども、慶應義塾には福沢の時代 の三田演説会以来の伝統だろう「広く一般の方々を対象として」公開されてい る講演会がある。 慶應義塾が主催する福澤諭吉誕生記念会、三田演説会やウ ェーランド経済書講述記念日の講演会、福澤研究センターの講演会、小泉信三 記念講座や創立百五十周年記念事業の「復活!慶應義塾の名講義」シリーズも、 だれでも聴くことができる。 せっかくの良い講演に、集まる人の数はけして 多くはないのだ。 もったいない限りである。 自由な時間を獲得しつつある 友人たちに、私はもっぱら「耳学問」をすすめている。

「土曜セミナー」で学んだ一例を紹介しておく。 森鴎外や日本銀行につい てのご本を愛読していた吉野俊彦さん(当時、山一證券経済研究所理事長)は 第六回で「福澤諭吉と富田鉄之助」を語った。 富田鉄之助は仙台藩の出身、 勝海舟門下で、その長男小鹿の米国留学に付き添って渡米し、経済学を修め、 外交官を経て、日銀総裁、東京府知事を務めた。 大童信太夫にひきたてられ た富田は、仙台藩や大童と関係のあった福沢とは幕末から知り合っていたらし く、富田が杉田玄白曾孫の美人と結婚するに際しては福沢が媒酌人を務め、日 本最初の夫婦契約書が作られた。 三田演説館の設計についても、在米の富田 が材料を提供している。 私が吉野俊彦さんの講演で初めて知って驚いたのは、 三多摩は八王子も三鷹も明治前半まで神奈川県だったということだった。  1891(明治24)年からの富田の東京府知事時代、多摩川は上流の三多摩が神 奈川県に属し、水道として使っている東京府では上流の管理の悪さからチフス やコレラが流行したりしていた。 今でも縄張り問題は大ごとだが、富田は抜 身を下げた相模の壮士に狙われたりしながら、命をかけて三多摩の東京府併合 に成功し、東京の水源を確保した。 水道をひねって、ふと思うことがある。  先人は便利なものを考え、よく作っておいてくれたものだ、と。 その先人に 富田鉄之助や長与専斎、W・K・バルトンといった名前があり、バルトンにつ いては後に福沢とその父親との関係を私が知ることになったのだった(『福澤手 帖』132号)。

深く印象に残っている講演を、十だけ列挙しておきたい。 第三回・池田彌 三郎さん「日本語の近代化と福澤諭吉」。 第十回・飯沢匡さん「ユーモリスト としての福澤諭吉」。 第二十四回・正田庄次郎さん「田端重晟(しげあき)日 記より見た福澤と北里」。 昭和57年記念講演・武見太郎さん「福澤諭吉の『帝 室論』をめぐって」。 昭和60年記念講演・丸山眞男さん「福澤における「惑 溺」」。 昭和61年記念講演・永井道雄さん「福澤先生とその時代」。 昭和62 年記念講演・江藤淳さん「福澤先生と三田文学」。 第六十四回・辰濃和男さん 「福澤諭吉の文章」。 それらは古い交詢社の大食堂の、いささか暗い重厚な雰 囲気とともに記憶に残り、つぎの二つは日本橋室町三井本館の明るい横長の部 屋とともに思い出に残っている。 平成14年記念講演・阿川尚之さん「トク ヴィルの見たアメリカ福澤諭吉の見たアメリカ」。 第九十回・橋本五郎さん「ジ ャーナリストの学ぶ福澤諭吉」。

「土曜セミナー」は、最初に書いた塾監局の第一回と桑原三郎先生と梅渓昇 さんのお二人が講師だった大阪新阪急ホテルの第五十八回の二回を例外として、 すべて交詢社で開かれている。 3月交詢社から刊行された竹田行之さん執筆 の『交詢社の百二十五年―知識交換世務諮詢の系譜』に、『福澤諭吉全集』に収 録されてはいないが福沢の文体的特徴が濃いという「交詢社設立之大意」が収 録されている。 交詢社の目的は、知識を交換し世務を諮詢(世の中の諸事を 相談)することにあるとして、「抑も学問の道は学校のみに在らず、又読書のみ に在らず。学校に入て諸科の学を学び、家に居て百家の書を読むも、限ある一 人の力を以て千緒万端この繁多なる世の中の事に当らんとするは、迚も叶ふ可 きことに非ず。(中略)人々雅俗の別なく、其知る所を人に告げて、知らざる所 を人に聞くは最も大切なることにして、譬へば我が一つ知る事を十人に告げて、 十人の知る事を我に聞けば、一を以て十に交易する割合なり。之を活世界の活 学問と云ふ。即ち知識を交換するとは此事なり」。 「土曜セミナー」の場とし て交詢社ほど、ふさわしい場所はない。 講演後の鋭いコメントやスリリング な質疑応答も「土曜セミナー」の大きな魅力の一つである。

かつて松永安左エ門さんは、福沢桃介の言葉を引き、人間を一つのダンゴに まるめて一番大きいのは福沢先生で、まるめようとしても、それは至難の業だ といった(『人間 福澤諭吉』)。 これからも福沢諭吉という巨大な人物に、各 方面の講師がいろいろな角度から挑んでいく「土曜セミナー」を「耳学問」で きることは、この上もない楽しみである。

スコットランドにW・K・バルトンの記念碑建つ―百七年目の帰郷―〔昔、書いた福沢118〕2019/09/29 08:18

『福澤手帖』第132号(2007(平成19)年3月)の「スコットランドにW・ K・バルトンの記念碑建つ―百七年目の帰郷―」。

 水道が断水した時の不便を思い出しただけで、その人の有難さが身に沁みる。 2006年は、明治日本の上下水道の先生ウィリアム・キニンモンド・バルトンの 生誕百五十年の記念の年であった。 彼がスコットランドのエディンバラで生 まれたのは1856(安政3)年で、2008年に創立百五十年を迎える慶應義塾開 塾の二年前になる。 W・K・バルトンは明治政府が上下水道事業を始めるに あたって招いた「お雇い外国人」の衛生工学技術者で明治20(1887)年に来 日した。 帝国大学で衛生工学を教えて多くの日本人後継技術者を育てる一方、 国内二十四都市で水道、下水道の調査、計画、助言などの活動をした「日本の 公衆衛生の父」と呼ばれる人物で、さらに台湾でも同様の業績を残している。  そうした専門分野だけでなく、写真の大家として日本の写真史にも重要な足跡 を残し、浅草に建てられた日本最初の高層建築「凌雲閣」(浅草十二階)の設計 者でもある。 しかし明治32(1899)年、日本と台湾12年間の滞在からの帰 国寸前、東京で病没したために、日本において残した優れた業績が、本国では ほとんど知られていなかった。 その生誕百五十年にあたり、日本から感謝の 意を伝え、今後の友好親善をさらに発展させたいという願いから、W・K・バ ルトン生誕百五十年記念事業実行委員会が組織され、記念事業が挙行された。  5月には目黒の東京都庭園美術館で記念講演会が、9月にはスコットランドで 一連の記念事業が行われた。 そのクライマックスが、エディンバラでの記念 碑の除幕式だった。 12月『W・K・バルトン生誕150年記念誌』が刊行され た。

 以前『福澤手帖』102号の「バルトンとバートン」に書かせてもらったが、 バルトンと、福沢を通じてその父親が、親子で日本の近代化に貢献していたこ とが判明した。 1983年ハーバード大学のクレイグ教授の研究で、福沢の『西 洋事情』外編の主体になったチェンバーズの『政治経済学』のチェンバーズと いうのは出版社であって、著者はジョン・ヒル・バートンというスコットラン ド人であることが明らかになった。 そのことにふれた私の『五の日の手紙3』 (1994年)「『西洋事情』を読む」を、W・K・バルトン研究家の稲場紀久雄大 阪経済大学教授の夫人日出子さんがお読みになったことから、W・K・バルト ンの父親ジョン・ヒル・バートンと、福沢に影響を与えたジョン・ヒル・バー トンが同一人物だということが判明したのだった。

父ジョン・ヒル・バートンは、スコットランド国立ポートレート・ギャラリ ーの栄光の間に胸像が置かれている十数名の著名人の一人、スコットランド王 室の歴史編纂官に任ぜられた歴史家で、エディンバラの監獄所長などを務めた。  温かい人柄と論壇での幅広い人脈から、その家には若い作家や編集者が出入り し、その中にシャーロック・ホームズのアーサー・コナン・ドイルや『宝島』 のロバート・ルイス・スティーブンソンもいて、バルトンと強い友情で結ばれ ていた。 母キャサリーン・イネスは、十二世紀に遡る名門一族の出で、スコ ットランドの女子教育と女性の地位向上につくした人であった。 バルトンが 幼・少年時代を過ごしたクレイグ・ハウスは今、ネーピア大学(対数の概念を 考案したジョン・ネーピアを記念する)のキャンパスに保存されていて、その 小高い丘から見渡した、町並の彼方に海の見えるエディンバラの景色は、時間 を忘れるほど美しいという。 そのオールド・クレイグ・ハウスの前にW・K・ バルトンの記念碑(碑文は下記)が建ち、バルトンは歿後百七年にして帰還す るにふさわしい場所に帰ることが出来たのだった。 アバディーンでの稲場教 授の「W・K・バルトン教授の生涯と思想―日本の衛生工学と近代化への貢献」 と題する記念講演では、父ジョン・ヒルの母校アバディーン大学の関係者など が、ジョン・ヒルと福沢の関係に強い興味を示し、質問も出たと聞いている。

 日本ではイングランドとスコットランドを一緒に考えるけれど、まったく 別々なのだ。 幕末明治のスコットランドと日本の関係は深い。 実学精神に あふれたスコットランドは大英帝国の「工場」として鉄道・機械・造船業の繁 栄を導き、当時の世界の技術発展の中枢となり、海外へ雄飛していた。 日本 の文明開化に最も貢献したのはスコットランドだと言っても過言ではない。  薩長に武器類や艦船をもたらしたグラバー商会のトマス・グラバー、工部大学 校のすべての機構を作り上げたヘンリー・ダイヤー、灯台や横浜の鉄橋(吉田 橋)と電信工事(共に日本初)のリチャード・H・ブラントンもスコットラン ド人である。 日本人留学生が最も多かったのもスコットランドかもしれない。  グラスゴー大学に留学した福沢の三男、三八もその一人で、入学試験の第二外 国語に日本語を希望し、大学の依頼でロンドン留学中の夏目漱石が試験を担当 している(このことについては「福澤手帖」28号、北政巳さんの「グラスゴウ 大学と福沢三八―日蘇交流の一視点―」に詳しい)。

[エディンバラのW・K・バルトンの記念碑の碑文(訳文は馬場試訳)]

Dedicated with Deep Gratitude To WILLIAM KINNINMOND BURTON 1856-1899/Elder Son of JOHN HILL BURTON, Historiographer Royal, and KATHERINE INNES/First Professor of Sanitary Engineering at the Imperial University, Tokyo/Sole Consultant Engineer for Home Ministry, Designing Water Systems for Major Cities including Tokyo/Designed Japan’s First Skyscraper RYOUNKAKU in Tokyo/introduced Modern Photography to Japan/A Most Prominent Scottish Contributor to Japan’s Modernization/September,2006/The 150th Anniversary of W. K. Burton ’s Birth Planning and Executive Committee, Japan and Scotland

ウィリアム・キニンモンド・バートン(1856-1899)に深い感謝の気持を捧 ぐ/(スコットランド)王立歴史編纂官ジョン・ヒル・バートンとキャサリー ン・イネスの長男/東京帝国大学の最初の衛生工学教授/東京を含む主要都市 の上下水道を設計した内務省の衛生工学専門顧問技師/日本最初の高層建築・ 東京の「凌雲閣」を設計し/近代的写真術を日本に紹介した/日本近代化への 最も卓越したスコットランド人の貢献者/2006年9月/日本・スコットランド W・K・バルトン生誕150年記念事業実行委員会

読書会「福澤諭吉の女性論・家族論」(2)〔昔、書いた福沢117-2〕2019/09/28 07:00

【3】明治31年から亡くなるまで…「新女大学主義」。

福沢は明治31年8月から9月にかけて、集中的に「女大学評論」「新女大学」 を執筆した。 当時は貝原益軒著とされていた「女大学」的な修身道徳が、女 性を縛る規範としてなお活きていて、それを復活助長する動きもあり、福沢は 一夫一婦制、男女同等といった新しいモラル確立を妨げるものとして「女大学」 を槍玉に挙げて論じたのだった。 福沢はまた、男性の意識改革がなければ状 況は変わらないことを強調し、他人の目を気にして育児に協力しない父親を「勇 気なき痴漢(ばかもの)」と書いている(「新女大学」)。

明治33年4月15日付の『時事新報』社説「最後の決戦」(日原昌造草稿) は、当時の社会状況を分析して、維新以後「有形の区域」物質文明においては 「文明流」が勝利をおさめたが、「無形のもの」では抵抗力が強く「文明の進歩 を渋滞せしむるの憂」があると述べて、「新旧最後の決戦とも云ふ可きものあり て存するは即ち道徳修身の問題なり」「儒教主義の旧道徳を根柢より顛覆して文 明主義の新道徳を注入せん」とした。 福沢はこの「文明流」対「儒教主義の 旧道徳」を、女性論では「新女大学主義」対「女大学風の教育」として展開し た。 それは福沢の近代化構想の一端であり、「女大学」(「女大学」的規範)は 福沢が構想する日本の近代化とは相容れない存在として強く認識されていた。  福沢の女性論・家族論は、山川菊栄、堺利彦、福田英子、与謝野晶子から、昭 和初期の金子(山高)しげり、戦後の本間久雄に至るまで、高い評価を受け続 ける。 福沢の指摘している問題点が今日的であり続けるということは(私は、 福沢のいう「男女共有寄合の国」と、「男女共同参画社会」担当大臣の存在を思 った)、とりもなおさず、それらの問題点が近代化の過程で解決されてこなかっ たことを示している。 福沢の女性論・家族論は、「最後の決戦」に敗れたと、 西澤さんは結論する。 明治10年代半ば以降「儒教主義の旧道徳」が示した 「女大学」風の“新しい”女性像では、良妻賢母を国を担う女性の役割として 位置づけ、国家富強に結びつけた。 それは日清、日露の戦争を経て、特に顕 著になり、国民総動員体制へとつながったのだった。

かつて獅子文六は福沢を小説に書こうとして、断念した。 小説の主人公は、 もう少し不幸で、曲折や陰翳がある方が書き易いのに、ほとんどトントン拍子 で、性格も明るく無類に健康的で、まるで朝の太陽だというのだ。 『福翁自 伝』の終りの「自身の既往を顧みれば遺憾なきのみか愉快なことばかり」を思 い出す。 しかし、福沢研究の最先端はどうも一味違った福沢像を提示してき ているようだ。 この読書会で西澤さんが、福沢の女性論・家族論は「最後の 決戦」に破れたというし、昨年の読書会では松崎欣一さんが、福沢の晩年、文 明の主義を説く年来の主張が、必ずしも世間に浸透していない、またその真意 が十分理解されていないという思いが、『全集』編纂『全集緒言』執筆へと、福 沢を突き動かしたのではないかと述べた。 今年6月の福澤研究センターのセ ミナーでは、竹森俊平経済学部教授の松方正義と福沢(大隈)の経済論戦の話 で、「明治14年の政変」で日本が松方の路線を選択したことによって、福沢(大 隈)の英国流議院内閣制憲法の路線は消えたと聞いた。 福沢の実像は、平成 の獅子文六に小説の材料を提供しているだけでなく、日本の近代化は真に達成 されたのだろうか、日本の社会は文明の精神を置き去りにして、かたちだけの 文明開化に終始しているのではないか、という疑問を私達につきつけているよ うである。

読書会「福澤諭吉の女性論・家族論」(1)〔昔、書いた福沢117-1〕2019/09/27 07:23

『福澤手帖』第127号(2005(平成17)年12月)の「読書会「福澤諭吉の女性論・家族論」―西澤直子さんの話を聴いて―」。

    読書会「福澤諭吉の女性論・家族論」―西澤直子さんの話を聴いて―

福沢があの時代になぜ、あれほど斬新な女性論・家族論を書くことができた のかは、私の長い疑問だった。 高校生の頃に出合った伊藤正雄さんの『福沢 諭吉入門』(毎日新聞社)には、「女性の解放―男女平等論と一夫一婦論―」と 「親子の独立―道徳教育はすなわち親父教育」という章があって、前者には「男 ひとりに妾八人もまた不都合ならん」「新婚の新家族は、新苗字を創造すべし」、 後者には「子として家産に依頼すべからず」「第二世にはおのづから第二世の生 活法あり」といったフレーズがあった。 戦後教育、それも六三制実施の初期 に小学校に入学した私は、民主主義のシャワーを浴びて育った。 だが、そこ で教えられた理想が、現実の大人たちの世界と微妙にずれていることに、次第 に気づくようになる。 そんな高校生が、伊藤正雄さんによって紹介された福 沢の女性論・家族論に目をみはり、明治の初期、既にこんな進んだ民主主義的 な議論をしている人のいたことに驚き、たちまち魅せられたのだった。

福澤諭吉協会の2005年度読書会は「福澤諭吉の女性論・家族論」をテーマ として、慶應義塾福澤研究センター助教授の西澤直子さんを講師に、10月29 日と11月5日の二回、三田の研究室で開かれた。 最初に私の挙げた疑問に、 西澤さんは明快に三つの要因を示した。 (1)西洋の論説…J・S・ミルThe subjection of woman『女性の隷従』、(2)西洋体験…幕末三度の海外渡航体験 で女尊男卑の風俗や女性の生き方を実見したこと、(3)成育環境…三田でも親 戚や旧藩主奥平家の沢山の女性に囲まれ、頼られていた。

西澤さんは、福沢の女性論・家族論を、まず三つの時期に分け、福沢の著作 以外の書簡や実際の活動に、さらには読者の反響にも、留意しつつ検討を加え た。

【1】西洋事情外編・中津留別之書から、明治10年頃まで…「一身の独立」。

明治維新後の福沢の最大の関心は、「民」(新しい形の日本人)の創出であっ た、と西澤さんはいう。 一身独立して一家独立、一家独立して一国独立、天 下独立という主張だ。 一身独立した「民」は、精神的に自立し、経済的にも 自立していなければならない。 「男も人なり女も人なり」(『学問のすゝめ』 第8編)、「民」には女性も含まれる。 一国を構成するのは独立した男女でな ければならない。 福沢にとって女性の地位を論じることは、近代のあり方を 論ずることであり、生涯の関心事となるのは当然だった。 「一身独立」のた めには封建的な「家」の解体が重要な命題になる。

【2】明治18,9年から20年代前半まで…「新しい「家」の確立=体系的女性論」。

明治18年『日本婦人論』『日本婦人論後編』『品行論』、明治19年『男女交 際論』『男女交際余論』、明治21年『日本男子論』で福沢が説いたのは、社会 を構成する単位としての新しい「家」の確立と、女性であっても社会的役割を 果たすことだった。 新しい「家」は(1)一夫一婦によって構成される、(2) 対等な男女が愛・敬(尊敬)・恕(お互いの気持になって許しあう)によって結 びつく、(3)夫婦間でも各々の「私有」財産を有し、各「家」ごと独立した活 計を営む、ものだった。 女性の社会的役割については、「男女共有寄合の国」 「日本国民惣体持の国」「国の本は家に在り」と書き、女性に学習・交際の場を 与えることを考えて、著述活動や教育活動を行った。