「トレチャラス・アタック」2025/08/25 07:12

 三國一朗さんの『戦中用語集』に「トレチャラス・アタック」という項目がある。 トレチャラスtreacherous という英単語を知らなかった。 「トレチャラス・アタック」という英語のフレーズを、ラジオで日本の国民に話したのは、開戦時にワシントンで野村大使をたすけ対米交渉に当たった、大使の来栖三郎で、日米開戦の後日本に帰った彼が国民に開戦当時のワシントンでの体験を告げたスピーチの中の一つのことばだった。

 要するに、日本軍(ハワイ作戦軍機動部隊)による「真珠湾攻撃」は、日本の駐米大使から手渡された〈最後通牒〉よりも1時間20分早く開始された、その事実を指摘した当時のアメリカの世論の中の〈用語〉がこれで、日本語に訳せば「だまし討ち」、日本側の“卑怯な”やり方という意味を強く含めたことばだった。 来栖大使は、ハル長官に限らず、「真珠湾」以後のアメリカ人は、自分たち日本人を面罵する口調で常にそれを言ったと、話した。 「真珠湾」の一撃が、「リメンバー・パールハーバー」に標語化されて、アメリカ中を奮起させたことも事実である。

 そもそも奇襲の第一報がワシントンの海軍省に着いたのは、現地時間で7日の午後1時50分。 大統領がすぐハル国務長官に電話すると、ハル長官は驚いて、「本当ですか!」と聞き返したというのが有名な話である。 野村・来栖両大使が、問題の「覚書」を手にして国務省に到着、長官の部屋に入ったのは2時5分すぎだった。 会見は、2時20分にはじまる。 ハル長官はまず壁の大時計を仰ぎ見て、時刻を宣言したうえ、「覚書」(日本文にして、約4000字)を読み、ひどく興奮した態で、「私の50年の公的生涯を通じて、このような虚偽に満ちた文書は見たことがない!」(加瀬俊一『ドキュメント 戦争と外交』上、読売新聞社、昭和50年)と、吐き捨てるように言い、野村大使が口をはさもうとするのを無視し、だまってドアを指さした、という。 二人の大使は、大使館に帰ってはじめて真珠湾の「奇襲」を知る。

 ただ、アメリカの上層部が、日本の「奇襲」を全く予期しなかったかといえば、それはちがうらしい。 ただ、日本がやるにしても「南方」への進撃で、まさか「真珠湾」とは想像しなかった。 その驚きと衝撃は大きかったという。 つまり、〈第一弾を射つ立場〉に日本を追いこむことは前々から考えていたが、現実の第一弾が真珠湾に来るとは思いもよらなかった、ということである。 タイ、マレー、蘭印、フィリピンあたりと、先方は予想していたのであった。

 当時学生だった三國一朗さんには、世界の耳目を集める日米間の交渉の舞台で、相手方から「トレチャラス・アタック」と痛罵されるような「奇襲」のプランが、日本の軍隊に、日本の指導者層にあった、という想像は辛かった。 当時は考えも及ばなかったが、日本の敗戦は、その第一段階の真珠湾の一時的な戦果に酔ったことと、どこかで繋がってはいないだろうか、と書いている。

「八紘一宇」を知っていますか?2025/08/24 07:41

 三國一朗さんの『戦中用語集』に「八紘一宇(はっこういちう)」があった。 昨日書いたように、私は1941(昭和16)年4月に生まれて、次男坊だったので、「八紘一宇」から紘二と名付けられた。 三兄弟、兄は晋一、弟は晴三と、番号が付いている。 同級生には、名前に「勝」や「捷」、「征」の字が入っている人がいる。 「紘」の字を説明するのに、昔を知る人には「八紘一宇」の「紘」、糸偏にカタカナの「ナ」と「ム」を書くと言う。 よく糸偏に「広」、「絋」と間違える人がいる。 パソコンで打つのには、ピアノの中村紘子さんの「紘」と説明するけれど、中村紘子さんも古くなったかも知れない。 戦前、宮崎に巨大な「八紘一宇」の塔があった写真を見たことがあり、出羽三山の月山頂上に「八紘一宇」の碑があるのをテレビで見た。 宮崎の塔は、八紘之基柱(あめのもとはしら)、「八紘一宇」の字は秩父宮の揮毫、戦前の十銭紙幣となり、現在は「平和の塔」と呼ばれているそうだが、「八紘一宇」の部分は、どうなっているのだろうか。

 そこで、『戦中用語集』の「八紘一宇」。 紀元二六〇〇年の式典で、総理大臣の近衛文麿は、天皇の「臣」を代表して、非常時を打開し、「八紘一宇」の「皇謨(こうぼ)」を「翼賛」する、と宣言した。 そして、宏く大きく限りない天皇の「聖恩」にむくいるのが国民の覚悟であると、公けに、これも「宣言」した。 「八紘一宇」の「皇謨」とは何だろうか。 三國一朗さんなどのように、昭和以前に生まれた日本人は、こうした意味のよくわからない日本語をいくつも知っていた、いや、知らされていた。 「天壌無窮」「国体明徴」なども、なんとなくフィーリングとしてはわかるが、正確な意味となると、自信が持てない。

 三國一朗さんは、紀元二六〇〇年の昭和15年に高校の教室で、この「八紘一宇」の原典らしいものについて教わった記憶がある。 『国体の本義』(昭和12年5月)という内閣印刷局発行の教科書だ。 「八紘一宇」は、神武天皇が大和の橿原(かしはら)の地に都を定めたときの詔(みことのり)の中に、それがある。 乾霊(あまつかみ)という祖先の神から国(日本)を授けられたことを感謝し、子孫を正しく養い育てようと思う、そして国内をおさめて都をひらき、八紘(あめのした)を掩(おお)って宇(いえ、家)としたい……、というのだから、要するに天下を一つにしたい、これにつきるようだ。

これとまた同じことは『日本書紀』にもあり、そちらは「六合を兼ねて以て都を開き、」八紘を掩ひて而して宇と為す」(巻の三)というのだから、要するに元は一つであろう。

中国から東南アジアにかけて勢力を伸ばし、北京やシンガポールを自国の都市の一つとみなして、諸民族を統合し「大東亜共栄圏」を作ろうではないか……、田中智学(宗教家)が造語したという「八紘一宇」を昭和の時代にあてはめると、およそこんなことになったのではないか。 と、三國一朗さんは書いている。

慶應義塾、上原三兄弟良春・龍男・良司の戦争2025/08/22 07:08

 慶應義塾塾史展示館では、6月19日から春季企画展「ある一家の近代と戦争 上原良春・龍男・良司とその家族」が開かれている(8月30日まで)。 同じ『三田評論』8・9月号の巻頭「丘の上」には、元医学部病理学教室の青木貞章教授の長女横山房子さん(1954文学部卒)が「上原家の三兄弟の想い出」を書いている。 青木教授は松本出身で慶應医学部の三回生、遠縁にあたる安曇野の旧有明村の開業医だった三兄弟の父上原寅太郎とは「義兄弟」と誓い合った大親友で、両家は家族のようにお互い出入りしていたという。 青木教授が慶應に入ったのは、祖父が自分の戒名を「独立自尊居士」とつけた福沢先生ファンで、勝手に願書を出したかららしい。 その青木教授の影響で、上原家の長男良春、次男龍男は旧制松本中学から慶應医学部に入学し、房子さんが「良司兄さん」と呼んでいた三男は医学部に落ちて、一年間高円寺の青木家に下宿して予備校に通い、経済学部に入った。

 青木教授は長く出征していて、昭和19年秋、房子さんが白百合の女学校1年生の時、青木家は父の故郷松本の寿村赤木に疎開した。 学徒出陣で陸軍にいた「良司兄さん」が訪ねて来てくれ、母と弟の三人で駅までの道を送って行った。 「ここでいいから」と言われ、見えなくなるまで、「さよなら」と言い合って別れた。 出撃するとも何とも言わなかったけれど、麦畑に三人でしゃがんで、声を上げて泣いてしまった。

 上原良司は、翌月5月11日、鹿児島の知覧飛行場から三式戦闘機「飛燕」で特攻出撃して戦死した。 長男良春は医学部卒業後に陸軍軍医となり、終戦直後の9月にビルマの捕虜収容所で戦病死、次男龍男も医学部卒業後に海軍軍医となり、昭和18年9月ニューヘブリデス諸島沖で伊号潜水艦と共に戦死しており、上原三兄弟はともに戦争で亡くなった。

 上原良司の特攻出撃前夜の遺書「所感」は、『きけわだつみのこえ』で有名になった。

「自由の勝利は明白な事だと思います 明日は自由主義者が一人この世から去ってゆきます 唯願はくは愛する日本を偉大ならしめられんことを国民の方々にお願いするのみです」

「栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊とも謂ふべき陸軍特別攻撃隊に選ばれ身の光栄之に過ぐるものなきを痛感致して居ります 空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人が云った事は確かです 操縦桿を採る器械 人格もなく感情もなく勿論理性もなく、只敵の航空母艦に向って吸ひつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬのです 理性を以て考へたなら実に考へられぬ事で強ひて考ふれば彼等が云ふ如く自殺者とでも云ひませうか 精神の国、日本に於てのみ見られる事だと思ひます こんな精神状態で征ったなら勿論死んでも何にもならないかも知れません 故に最初に述べた如く特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思って居る次第です」

 わが家も、三兄弟が慶應義塾で学んだが、平和な時代で、のんべんだらりと育って暮らすことができたのは、有難いことだったと、思わずにいられない。

白井ゼミから都倉武之さんの福澤研究センターへ2025/08/21 07:13

 白井厚先生追悼が載った『三田評論』8・9月号は、特集が「戦争を語り継ぐ」で、都倉武之福澤研究センター教授は、「慶應義塾史における戦争研究の課題と可能性」という一文を寄せている。 その冒頭は「白井ゼミからの継承」だ。 慶應義塾における戦争期の調査の先駆者は、1991(平成3)年にゼミ生と共に共同研究「太平洋戦争と慶應義塾」を開始され、以後ライフワークとされた経済学部の白井厚名誉教授であることは論を俟たない。 白井調査の金字塔は2,200名以上の慶應義塾関係戦没者の存在を実名で詳細に明らかにした、他に例を見ない徹底した戦没者名簿の作成、そして戦争体験世代の塾員に一斉発送した空前の規模のアンケートの実施による戦時中の慶應義塾の実態調査などに代表される。

 学徒出陣70年といわれた2013年、慶應義塾史のアーカイブとしての福澤研究センターに、特攻で戦死した塾員の遺族から、戦争期の調査を目的としての多額寄付があり、これを機会に都倉さんは「慶應義塾と戦争」アーカイブ・プロジェクトを開始した。 まず、白井先生を訪ね、数千通のアンケートの個票原本を始め調査資料を受け継ぐとともに、白井調査を補完するために、この時点からやって価値のあることを四つ見定めた。 (1)一次資料の収集。戦争期の塾生塾員の様子を伝える生の資料は当時は福澤研究センターにほとんど収蔵されていなかったので、手紙、日記、写真、使用品などの実物資料を収集保管して、ある程度の密度のある資料群を形成することを目指す。 (2)まだできる戦争体験者の聞き取り調査を実施し記録を残す。 (3)学内資料を集計して、学徒出陣期の統計データを明らかにする。 (4)これらの活動成果を展示公開することでこの分野の研究の発展を図る。

 以後、十数年の歳月を経て、収集資料は他大学に類を見ない厚みを持ったと自負できる規模になった。 さまざまな展示の機会を設け、2021年の慶應義塾塾史展示館開館によって、常設展示にも戦争コーナーを設けることが出来た。 聞き取りは百名規模で実施ができ、統計テータの解析は様々な資料的限界が判明しつつ、今も継続している。 現在では、慶應義塾関係戦没者の数は、2,231名が確認されているという。

戦争を語り継ぐ、白井厚編の『大学とアジア太平洋戦争』2025/08/20 07:03

 白井厚先生が、3月9日に94歳で亡くなったことを、『三田評論』8・9月号の追想(坂本達哉名誉教授)で知った。 私は、1997(平成9)年の終戦記念日の「等々力短信」に、白井厚先生とその編著『大学とアジア太平洋戦争 戦争史研究と体験の歴史化』(日本経済評論社・1996年)のことを書いていた。 享年94歳と知り、10歳上でしかなく、学生時代にフランス語の原書講読の授業を受けた時は、31歳か32歳であられたことに、あらためて驚いた。

     戦争を語り継ぐ<等々力短信 第781号 1997.8.15.>

 塾員文庫主宰の栗原嘉明さん(等々力短信733号「奇特な人」)から、白井厚編の『大学とアジア太平洋戦争』(日本経済評論社)をいただいた。 慶應義塾大学経済学部の白井厚教授のゼミナールは、学徒出陣を始めとする「太平洋戦争と大学」をテーマに研究したことで、マスコミにも取り上げられ、有楽町のマリオンで展示を行なったりしたから、憶えておられる方が多いかもしれない。

 私は学生時代、白井さんのフランス語の原書講読の授業を受けた。 今やフランス語など、数や曜日でさえ怪しい状態だが、当時は確かソレルの『暴力論』というのを読んだのだから、恐ろしい。 もっとも級友のひとりが、マルクス・エンゲルスを「マルクスと天使達」と訳して、教室は爆笑、白井さんを唖然とさせたことがあった。 あとの実力は推して知るべし。

 『大学とアジア太平洋戦争』は白井さんの退職記念論文集として編まれたもので、ご自身の「戦争体験から何を学ぶか」という最終講義も含まれている。 白井さんは90年にオックスフォード大学に出張して、イギリス人や欧米人が歴史を克明に記録し、それを後世に伝える努力をしているのに、日本人は、あまりにも忘れっぽいということを痛感した。 それから太平洋戦争を大学の場で考える試みが始まった。

 白井ゼミでは、戦争中に慶應の大学・予科・高等部の学生だった人で住所のわかる7千名にアンケートを出し、1,698名の回答を得た。 大先輩たちから、孫は全然戦争の話を聞いてくれないのに、あなたのゼミの学生は聞いてくれるから有難い、と白井さんはよく言われたそうだ。 三年をかけて大学関係の戦没者を調査し、約1,528名を確認して名簿を作成した。(等々力短信680号「五十回忌」に書いたように、『慶應義塾百年史』は、昭和16年以降の繰り上げ卒業塾員と学徒出陣塾生の戦没者数を八百余名としていたから、この調査まで、人数も名前も約半分しか分かっていなかったことになる)

 学生結婚した夫を学徒出陣で送り出し、戦死公報を幼い息子と受け取った小山市の田波文江さんの、三田と銀座の隣には戦場があったという体験談など、胸のつぶれるものがある。 彼らの死も、生き残った人々の体験も、非常に貴重で、それを歴史として書き残し(歴史化)、同時に外国人にもわかってもらえるように努力しなければならない(国際化)、それによって21世紀の世代に理解されなければ、歴史と世界情勢を学ばなかった日本人の悲劇は再び繰り返されるだろう、と白井さんは訴える。