横浜「中華街」の方角2006/07/26 07:50

 「古地図で旅する横浜」を、16日の夜晩く放送していたNHKの“タイムス リッパー”という番組でやっていた。 林家たい平を舞台回しに、高木美保と 大桃美代子が“タイムスリッパー”になる。 ミッションその一は、迷いやす いといわれる中華街で、その原因になっている「中華街はまわりとくらべて、 なぜ道が斜めになっているのか」という疑問を探った。 横浜の地図を見れば わかるが、中華街のところだけ、道路の方向がほかと違っているのだ。

 居留地の出来る前の古地図で、中華街のあたりは「横浜新田」、関内の一帯は 「太田屋新田」となっていた。 結論を言えば、入江の端に堤を作って(それが 現在の長安道)仕切って、その内側を田んぼにしたのが「横浜新田」で、その頃 から田んぼのあぜ道は斜めになっていた、というのである。 のちに中華街と なった時、ほかの居留地が港に向って碁盤の目に区画整理されたのに、ここだ けは田んぼのあぜ道のまま、家が建ったという。 今年3月、中国の航海安全 の神様、横浜媽祖(まそ)廟が出来たが、その工事のために地下を掘ったら、関 東大震災で瓦礫となったレンガと、水田の表面を示す水が出てきた、という。

 2003年、石川潔さんが講師を務めた読売文化センター横浜の「新・横浜歴史 散歩」に参加した。 その時、聞いた話は、まったく違う理由だった。 <小 人閑居日記 2003.6.8.>「横浜「中華街」の誕生」に、次のように書いてあっ た。

 なぜ「中華街」が誕生したか。 港に向って右手の外国人町(居留地)の欧 米商社の使用人として、中国人(当時は清国人)はやってきた。 通訳、買弁、 コック、下僕などとして。 条約を結んでいないのでパスポートがなく、18 78年に清国領事館が出来るまでは、集会所で籍牌という身分証明書を発行し ていた数が明治元年で660人、千人はいただろうといい、外国人の中では一 番数が多かった。 やがて、自分たちの家を持ち始め、それがチャイナ・タウ ン(清国人居留区)となる。 横浜の地図を見るとわかるが、風水の関係で、 この地域だけ東西南北の正方向に道路が走っている。 日本人向け中華料理屋 が出来たのは、案外遅く、明治の末になってからだったという。

 私には、風水説のほうが魅力的だ。 埋め立ての時期がよくわからないが、 埋め立てのあと、田んぼなど作る間はあったのだろうか。 新田というのは、 ただの名前だったのではないか。 掘れば水は出るだろう。 そんなことを考 えた。