高橋誠一郎先生の明治・大正2007/06/16 08:15

 8日の「高橋誠一郎歿後25年記念講演会」、最初の講演は服部禮次郎さんで「はじめに―高橋誠一郎先生の足跡」だった。 服部さんは、戦争中の時期の 高橋ゼミだったという。 高橋先生は常に和服で、袴をはき、端然としていた。  それが昭和20年に品川駅頭で偶然お会いしたら、復員服のオーバーに、戦闘 帽をかぶった、なさけない姿だったのが印象に残っているという。 晩年、歌 舞伎座にご招待したことがあった。 何幕目かに、さっさとお帰りになった。  具合でも悪くなられたかと、後で運転手さんに訊くと、理事長だった交詢社に 帰って、相撲を見るためだった。 4時過ぎになると、そうするのだという。  当時、委員長だった映倫でも、問題になる映画を観ての審査中、4時過ぎにな ると、「今日は、これで散会」になった、と聞いた。 高橋先生の米寿のお祝い が帝国ホテルであった時、高橋先生は「本日一番若い世話人は服部禮次郎君で あるが、その服部君の米寿のお祝いの席に、ぜひ出席したい」と、述べたそう だ。

 高橋誠一郎先生は、明治17年5月9日、旧新潟の最後を飾った豪商、廻船 問屋津軽屋のひとり息子として生まれた。 明治になって店は没落しており、 4歳で横浜にいた父・次太郎のもとへ出てくる。 父は横浜で茂木?商社・銀 行の支配人になった。 父は慶應義塾の出身者ではなかったが、福沢諭吉に傾 倒し、ひとり息子を慶應に託した。 体が弱かったので14歳で普通科に入学、 三田の山の上の寄宿舎に入り、どっぷり慶應につかることになった。 福沢の 三男三八と同級か仲間、「ご学友」の立場で福沢家に出入り自由となり、福沢先 生に3年間身近で接する。 いわば三田の生え抜き、慶應や福沢との密着度が 濃かった。 水泳部(当時は川か海(葉山)で泳ぐ)で活躍、文武両道で、学 生自治会でも活動、雑誌に執筆したり、演説をしたりした。 イギリスに留学、 一年足らずで結核になり、ロンドン郊外のサナトリウムで療養中、明治天皇の 訃報を聞く。 朝、食堂に遅れて出て、からかわれるかと思っていたら、喪章 をつけている人がいて、お悔やみを言われ、黒いネクタイを貸してくれた。 そ れで帰国、30代前半で慶應で教鞭を取るようになる。 大正時代の総合雑誌で 論陣を張り、「慶應に高橋・小泉あり」といわれるようになった。

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