昇太の「お見立て」2007/05/01 07:49

昇太は「落語というビッグなイベントによくいらっしゃいました」とは言わ ないで、「と、いうわけで」と出て来た。 噺家になって25年経った、という。  「若手のホープといわれて18年」は、いつ聞いても可笑しい。 例によって、 何を言っているのかわからない、師匠柳昇の「カツゼツ」の悪い話をするのだ が、『広辞苑』に「カツゼツ」がないのを、今、知った。 「滑舌」だろうか。  「口舌」(こうぜつ)や、歌舞伎でいう「口跡」(こうせき)はある。  柳昇は 「完全放任主義」なので、つらいことはなかった、師匠が何を言っているのか わからないのも、兄弟子が通訳してくれた。 落語は入門するのに、師匠の選 択権がある。 中にはそれがなくて、ならなくてよいのに親の跡を継いで噺家 になるのもいる。 そうじゃない私が「正統派」だと、胸を張る。

一番変ったのが、女性の立場だろう、(客席を見回し)この時間帯に、家事を しないで、芸人を見て笑っているんだから、昔の女性は大変だったろうと、「お 見立て」に入る。 喜瀬川花魁は若い者(もん)の喜助に、杢兵衛大尽は「イ ヤダヨー」という。 ベローンとしたクチビルに、猪のような頭。 横から見 ると鼻がない、穴はあるから、働き蜂が女王蜂を探して出たり入ったりする。  病で臥せっているというのを、見舞うというから、結局は死んだことにして、 だば山谷の墓に「アナイぶて」となる。 葉っぱの沢山ついた花と、線香の煙 幕でごまかそうとするのだが…。 案内する墓が「アンモウヨウクウ信士」だ ったり、「ミョウレイ童女 享年三歳」、そして「故陸軍歩兵上等兵」だったりす る。 昇太の騒がしさ、にぎやかさが、よい方にころがって、楽しい高座にな った。

権太楼「大工調べ」の金勘定2007/05/02 07:03

 ハカマを穿いて出てきたトリの権太楼、宵越しの銭は持たないという江戸っ 子と、噺家は違う、という。 噺家は、金、持っています。 地下室に隠して あります。 ふつうの噺家は、地下室は持っていない、地下道で寝ている人は いるけれど。 権太楼は、オヤジが大工で(雪隠大工と謙遜)、仕事は出来るが 口は巧くない、その分、おふくろが、畳屋、経師屋、仕事師に目配りしていた という話から、「大工調べ」に入った。

 親孝行で腕はいいが少し足りない与太郎という大工が、家賃を一両二分と八 百溜めた、そのかたに、大家の源六に道具箱を持っていかれた。 棟梁の政五 郎が、手持ちの一両二分を届けさせて、ゴタゴタになる例の噺だ。 一両は四 分に換算される。 その一両二分を、権太楼は「ガク六枚」とも言った。 聞 いたことのない言い方だ。 帰宅して辞書を調べて、ようやくわかった。 「ガ ク」は額、額銀の略。 天保一分銀の俗称で、形が額面に似ているところから、 そう呼んだという。 だが「ガク六枚」を使う意味があるかどうか、疑問だ。

 政五郎が大家の所に頼みに行って、喧嘩になる。 源六が大家になったイキ サツをまくしたてて、毒づく。 それを与太郎にも言わせるお笑いで終わるの が普通なのだが、トリだから「大工調べ」という題の所以、政五郎がおおそれ ながらと奉行所に訴え出る裁判までやった。 奉行は一旦、与太郎を敗訴にし て、残金の八百を納めさせた後、大家の源六に質屋の株は持っているんだろう な、と尋ねる。 株なしに道具箱を質に取った科料に、大工の手間十五匁の二 十日分、三百匁を源六から与太郎に払わせる判決となる。 この銀十五匁は一 分にあたるから、三百匁は二十分、つまり五両になる。 奉行が政五郎に「ちと、儲かったな」といい、(「細工は流々仕上げを御覧じろ」をもじって)「大工は棟梁(とうりゅう)、仕上げを五両じろ」の落ちになる。

馬翁、大磯の高麗山に登る2007/05/03 07:08

湘南平より富士山を望む

 29日の昭和の日、3月14日の「福沢に俳句や短歌はあるか」に書いた、福 沢が登って歌を詠んだ大磯の高麗山に登ってきた。 大磯の裏山「高麗山(こ まやま)に登る」という福沢の歌は、  四方八方を眺る吾も諸共にながめの中の人にこそあれ ブログを読んだ大磯、それも高麗山の麓に住む山崎君が、ハイキングを計画 してくれたのだった。 山崎君には一昨年の夏、夫婦で平塚に絵を見に行った ついでに、鰻の老舗「国よし」を始め大磯散策の案内をしてもらって味をしめ た経験があった。 今回も馬場夫婦に、同期同級の友人二名が参加、計五名の 一行となった。

大磯駅に10時の集合、まず福沢が避寒に大磯の松仙閣に滞在して「大磯の 恩人」(『全集』20巻383頁)という文章に書いた、日本初の海水浴場大磯の首 唱者松本良順の墓のある妙大寺に寄る。 お寺の裏山は、坂田山心中の坂田山。  この山に随筆「ぶらりひょうたん」の高田保さんの墓がある高田公園があると いう話だったが、そこへの上りはきついので、山崎家に寄り、東小磯という住 宅地から高麗山に連なる湘南平に登った。 標高200メートルほどの小山だが、 登りはなかなかのもので、いちおう登山の気分を味わう。

先日、66歳になった。 福沢さんの死んだ歳だ。 山に登りながら、福沢が 高麗山に登ったのはいくつの時だったろうか、と考えた。 「大磯の恩人」を 書いたのが明治26年2月20日、数え年で60歳だった。

高麗山の由来と手打ち蕎麦屋2007/05/04 07:08

サンランボを失敬するH氏、後ろは高麗山。

 約1時間の登りで到着した湘南平の展望台からの360度の眺望がすばらしい。  富士山は来がけに平塚あたりの東海道線の車窓から見て、雪をかぶった、あま りの大きさに驚いたが、湘南平からの時間になると、少し雲がかかっていたし、 まわりの景色が大きいせいか、小さく見えるのだった。 箱根、大山、丹沢の 山々がくっきりと見え、手前の平野に松田、秦野、伊勢原といった町がひろが っている。 海側は、三浦半島、小さく江ノ島、湘南の海岸線、伊豆半島と連 なり、遠く大島も見えた。

 高麗山に向って、緑したたる尾根伝いの登り降りを繰り返す。 クヌギなど の落葉が、滑りやすい。 山崎君の顔見知りの方々とすれちがう。 足早のご 夫婦もいたが、六甲の毎日登山のように、登る人もいるらしい。 高麗山頂の 看板に、167メートルとあり、高麗の名は奈良時代に高句麗を追われて渡来し た王族のひとり高麗若光や高句麗の人々がこの山の麓、化粧坂あたりに帰化し て住んだことに由来するとあった。 高麗を書き換えたらしい高来神社に降り る。 出発から約2時間だった。 大磯の駅まで戻る途中、化粧坂の辺で道端 に生っていたサンランボをちょっと失敬する。 甘酸っぱい、今年の初物。

 大磯からバスで、山崎君推薦のお蕎麦屋へ行く。 大磯ロングビーチを山側 に入った、東海大学大磯病院近くの昭庵という店で、穴子の一本揚げ、桜海老 の掻き揚げ、玉子焼、石臼挽き・生粉打ちという手打ち蕎麦が美味だった。  ゆっくりとした昼酒に、会話もはずみ、楽しくけっこうなハイキングの一日と なった。 福沢先生と山崎君のおかげであった。

川上弘美さんの『真鶴』2007/05/05 07:41

 湘南平から真鶴半島が見えた。 真鶴には「中川一政美術館」を見に行った ことがある。 半島の突端の方にも行き、付け根の漁港近くの食堂で刺身定食 を食べた。

川上弘美さんの『真鶴』を読んだ。 『文學界』連載中にだいたい読んでい たのだが、まとまったものも読んでみたくて、昨年12月に図書館に予約をし た。 川上弘美さんは人気で、順番が回ってくるまで、4か月かかった。

柳下京(やなぎもと けい・45)は、中学三年生になる娘の百(もも)が三 歳の時に、二つ上の夫の礼にとつぜん失踪され、エッセイなど書いて、母と三 人で暮している。 礼の失踪から十三年、京は編集者の青茲(52)と「したあ と、たべて、わかれて帰る」関係にある。 青茲には、妻と子供が三人いる。

川上さんは、うまい。 「にじむ」といった短く、平易な言葉を使って、読 む者をゆりうごかす。 俳句的である。

真鶴には、七月にお祭があるらしい。 この世からあの世に、船を出すお盆 の行事だろうか。 小説の真鶴には、異界の色が濃い。 京には、ついてくる 女がいる。 京は何度も、礼の日記に出てきた真鶴へ行く。 礼の姿を求めて …。 「砂」という名字の、母と息子らしい、あやしげな二人のやっている宿 に泊まったりする。 「いるのに、いない」青茲、「いないのに、いる」礼。 「き もちの中のことは、そうはゆかない」「あらゆるものが、そこに在ってしまう」