『小谷直道 遺稿・追想集』2007/05/06 07:05

 昨年の4月22日に亡くなった友人の『小谷直道 遺稿・追想集』が刊行され た。 この種の本として不思議だったのは、最後の略歴のところに亡くなった 日にちも、原因も書かれていないことと、ご家族による思い出の文章のないこ とだった。

 小谷直道君は、ずっと読売新聞の記者で、亡くなった時はよみうりランドの社長 だったから、追想の書き手には困らない。 読売新聞グループ本社会長・主筆 の渡邉恒雄さんをトリ(ここでこの言葉が適当かどうかわからないが、小谷君 は高校生の頃から寄席好きだった)に、東京本社社長で慶大新聞時代の先輩で もあると聞いた滝鼻卓雄さん始め、たくさんの読売マンが追想を書いている。

 それを読むと、死の事情が少しわかってくる。 一年半前からガンだった。  宣告を受けたあと、病気を一切口外してはならないと家族に厳命した。 「株 式を上場している会社の社長として責任がある」からで、奥さんには「俺も毅 然としているから、お前も毅然と振舞え」と言ったという。 読売新聞東京本 社特別編集委員の橋本五郎さんの「生粋のコラムニスト」という文章がさすが なのだが、娘さんから受け取った手紙に「父は本望だったのでしょう。命と仕 事との選択を迫られた時、父は仕事を取る人間だったと思います」と、あった そうだ。 夫人に対する最後の言葉は、「急に病院に行くので、今日の会合は欠 席させてもらう、あさって(月曜)の役員会の進行は会長にお願いして」とい う会社への業務連絡だったという。

「父たちの戦場」2007/05/07 07:31

 『小谷直道 遺稿・追想集』の遺稿の部に、1978(昭和53)年8月4日から 終戦記念日前日の14日まで読売新聞に連載された「父たちの戦場」がある。  社会部時代の代表作の一つという。 敗戦から33年目の夏、小谷君は当時37 歳だった。 この企画は彼が中国山東省済南市生れということと関係があった のだろうと思うが、この本からは、その間の事情は分からなかった。 略歴よ り、生涯をたどった小伝を載せたほうがよかったのにと思う。

「父たちの戦場」は南太平洋の激戦地、パプア・ニューギニアとソロモン諸 島をめぐっている。 山本五十六大将の搭乗機の残骸を確認するために、ブー ゲンビル島のジャングルの中にも分け入っている。 パプア・ニューギニアの お雇い外国人の土木建築技師、原晃さん(35)はかつて父が死の行軍を余儀な くされたウエワク―ボイキン間の道路建設にあたり、橋を架けた。 私などは 先日の津波でその位置がはっきりしたガダルカナル島は、昭和17年8月から 翌年2月までの6か月間、飛行場争奪の激戦がくりひろげられ“餓島”といわ れた惨状の戦場だ。 36年後のその当時、この地に踏みとどまって、遺骨の収 集と慰霊に執念を燃やす元参謀、細川直知さん(68)のことを書いている。 3 万人が上陸したという日本軍の戦死者数を、細川さんに尋ねたら、帰るまでに キチンとした数をと、あとで便箋のメモをくれた。 「日本軍上陸人員3万1358、 戦死・戦傷死・戦病死・行方不明2万1138」「米軍作戦参加人員約6万、うち 戦死約千、負傷4千245」。  連載の最後に、小谷君はイギリスの戦史家、バジル・ハート卿の言葉を引い ている。 「もし平和を欲するならば、戦争をよく理解しなければならない」

「ちはら町並み美術館」再訪2007/05/08 07:05

5日、西ヶ原の旧古河庭園にバラを見に行き、家内に前から一度連れて行っ てくれといわれていた巣鴨の「ちはら町並み美術館」を訪ねた。 この美術館 については、「等々力短信」937号に書いたので、後で再録する。  館長夫人の 喜美江さんに一つ一つ丁寧に案内していただき、千原昭彦さんの見事な作品を 拝見することができた。  翌日、山種美術館40周年を特集したNHKの「新日 曜美術館」を見ていたら、東山魁夷の「年暮る」、大晦日の京都の町のどこまで も続く瓦屋根の家々に雪の舞い降りている、あの名作を東山魁夷に描かせたの は、友人川端康成の言葉だったという。 「京都は今、描いといて頂かないと、 なくなります。京都のある内に描いといてください」。 千原昭彦さんのお仕事 は、まさに川端の言葉の日本全国版で、その意義はとても大きいと思った。

等々力短信 第937号 2004(平成16)年3月25日

ちはら町並み美術館

 たまに旅行すると、日本全国どこの駅前も、建物からサラ金の看板まで、同 じような景観なのに、がっかりする。 住宅も山の奥まで、新建材の規格品が 並んでいる。 ここ十年か二十年の間に、味のある建物や町並みは、どんどん 消えてしまったのだろう。

 その美術館は、JR山手線・都営三田線「巣鴨駅」から「おばあさんの原宿」 とげぬき地蔵通りを、“とげぬき地蔵”高岩寺の前を通って、ずずっと進み、赤 いパンツも売っている地下鉄漫才の春日三球さんの洋品店を過ぎ、もう少しで 都電荒川線の庚申塚停留所に出る手前、栄太楼という大きな和菓子屋さんの斜 め前の路地を、左に入って三軒目にある。 千原昭彦さん(65)が、整形外 科医院だった建物を買い取り、診察室、レントゲン室、手術室などを展示室に 改装し、1月8日にオープンした。 私は千原夫人の喜美江さんと、学生時代 に文化地理研究会というクラブで一緒だった。 千原昭彦さんは、横浜国立大 学の建築学科を出て大林組に入り、設計部で歴史的建造物の復元などに携わっ た。 52歳の時、原因不明の難聴になって、詩吟やカラオケ、ゴルフなどの 趣味が駄目になり、「視覚的な作業」に切り替え、土曜日曜を古い町家や町並み のスケッチと、その紀行文の執筆に熱中するようになる。 「人間何かを失う と、かわりに何かを得るものである」と、その3年分をまとめ、奥さんの強い 勧めで出版したという画文集『関東路拾遺図絵』(近代文芸社)のあとがきに、 千原さんは書いている。

 千原さんに説明を受けながら、全国行脚の成果である60点を鑑賞する。 0. 1ミリのドローイングペンで描き、ウィンザー・ニュートンの固形絵具で彩色 するという。 屋根瓦、庇(ひさし)、格子、下見板、石畳、海鼠(なまこ)壁、 煉瓦の煙突、上の本の時より、ずっと精密で、丁寧な描写になっている。 か なりの時間をかけて描くのだろう。 その土地の気候風土によく調和した建築 の形態がある。 徳島県池田町や貞光町の「うだつが上がらない」の「うだつ」、 台風銀座の室戸市では壁の「小庇」が美しい。 近景、中景、遠景が入った構 図に、町の歴史の連続性を描き込む。 土地には独特の「色調」があり、陰影、 影の色、日の当り具合を重視するという。 広島県竹原町でスケッチした時は 雨。 尾道に移ったら晴れてきて、いつも同行している喜美江さんがあわてて 戻って、晴の写真を撮ってきたそうだ。 ぜひ一度、ご夫妻の夢が実現した、 古美(ふるび)るものの美学「ちはら町並み美術館」を訪れて下さい。

  「ちはら町並み美術館」

 〒170-0002 東京都豊島区巣鴨4-14-10 電話03-539 4-4170 開館:午前10時~午後5時(入館は4時30分まで) 休館: 月曜日、火曜日、年末年始、夏休み、展示替え期間 入館料:大人500円、 高・中・小学生300円  交通:JR山手線「巣鴨駅」より12分、都営三田線「巣鴨駅」A3出入口 より11分、都電荒川線「庚申塚停留所」より4分 (駐車場はない)

豪華本『絵画で旅する 日本の町並み』の誕生2007/05/09 07:07

『絵画で旅する 日本の町並み』セット、絵は「吹屋」岡山県成羽町

 「ちはら町並み美術館」が開館して二年目の一昨年の秋、一人の若い編集者 が通りがかりに美術館に立ち寄った。 千原昭彦さんの絵をみて感激した彼は、 上司を伴って再び来館、千原さんの画集の出版企画書を、鏑木清方や菱田春草 などの著名な画家の企画書に混ぜて、需要調査のアンケートを取りたいという 申し出をした。 千原さんは実感として、まったく望みはないだろうと思った が、承諾だけはして、すっかり諦めていたという。

 その若い編集者は、通信教育の(株)ユーキャン、出版音楽映像事業本部・ 日本美術教育センターの社員だった。 その年の暮、40歳以上4万人のユーキ ャン会員にアンケートを発送した結果、ご本人の予想を裏切り、何と千原さん の画集希望者が最も多く、出版が可能ということになった。 それからの一年、 千原さんは全都道府県を含む作品200点の解説文や巻頭エッセイの執筆、絵の 描き直しや追加したい町並みの絵の作成に追われ、その上この出版事業には十 数名のスタッフも携わることになったので、千原さんは建設会社の現役時代と 変らないほどの多忙な日々を過すことになった。 もし、7,8年先だったら、 果たしてこれだけの作業をこなせたかどうか、まったく自信がない、体力が残 っているうちに出来て、本当によかったという実感を、千原さんはもらしてい る。

 千原昭彦さんが「一世一代の大画集」という豪華本『絵画で旅する 日本の町 並み』東日本篇、西日本篇の二巻、ビジュアルな解説書『町並みガイドブック 描 かれた風景を訪ねて』と『見方・描き方・歩き方 日本の町並みを愉しむ』は、 こうして出版されたのである。

写生旅行に内助の功2007/05/10 07:09

島根県智頭(ちず)町智頭宿石谷家の絵

 千原昭彦さんの『絵画で旅する 日本の町並み』東日本篇の、山形県「米沢」 にこんなエピソードがある。 あまり町が大き過ぎると、かえって古い町並み や建物を探すのに苦労するという。 米沢もそうで、奥さんと少し歩いてみた ものの、見つからない。 ついにたまりかねて、タクシーに乗った。 だが気 のよさそうな年配の運転手さんも、古い武家屋敷はあまり残っていないという。  いささか不安になっていると、偶然目の前に堂々とした明治の洋風建築が見え てきた。 千原さんは「あっ、あれが良い」と叫び、即座に奥さんも賛同して、 その「米沢市旧米沢高等工業学校」の絵は描かれた。

 実は昨日になって、島根県智頭(ちず)町で、奥さんが「凄い家ね。描くな らここね」といったという大庄屋のお屋敷が、私の同級生石谷君の家だったと いうことが、ご本人に連絡して確認できた。 世の中、面白い縁があるもので ある。

 このように千原さんの取材、写生旅行には、随所に千原さんを助ける奥さん の喜美江さんの姿がある。 宮城県の登米(とよま)町という所に行くのに は、JRの古川駅からローカル線をいくつも乗り継いだ果てに、ようやく気仙 沼線の柳津という駅に着き、さらにタクシーで北上川の堤防の道を行かなけれ ばならない。 そんな苦労をして辿りついた城下町登米で、千原さんは初日に 懐かしさに浸りながら小学校、二日目には武家屋敷街と警察署を描いたという。  あまりの遠さに、もう二度と来られないかと思い、とにかく必死だったと、千 原さんは書いている。 私は、奥さんが学生時代に四年で日本一周旅行ができ るというキャッチフレーズのクラブ、文化地理研究会でご一緒だったことを思 い、仲間の中ではその経験が一番役に立っているのではないか、と考えた。