細川ガラシャの辞世と、『人よ、花よ、』2024/04/18 06:59

 静岡県の川勝平太知事が10日、辞任を発表した際、心境として細川ガラシャの辞世の句を引いた。 「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」。 これをテレビのニュースで見て、私は3月末で大団円を迎えた今村翔吾さんの朝日新聞連載小説『人よ、花よ、』の題名が、なぜ『人よ、花よ、』なのか、遅まきながら気付いたのだった。 川勝平太元知事、以て瞑すべし。

 細川ガラシャは、明智光秀の娘たま(珠・玉)、天正6(1578)年父の主君織田信長の発案で、細川藤孝(幽斎)の嫡男・忠興に嫁いだ。 二人の子は、天正7(1579)年長女於長(おちょう)、同8年長男忠隆(後の長岡休無)、同11年次男興秋、同14年三男忠利、同16年次女多羅(たら)が誕生している。 後に、忠隆は廃嫡されて、家督は忠利が継ぎ、不満を抱いた興秋は大坂の陣で豊臣側に与することになる。

 天正10(1582)年6月、本能寺の変が起こり、たまは光秀の娘として連座を免れなかったはずだが、忠興は離縁せず、丹後国の味土野(現、京都府京丹後市弥栄町)に幽閉した。 天正12(1584)年、信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉の取り成しもあって、忠興はたまを細川家の大坂屋敷に戻した。 たまは、忠興が高山右近から聞いたキリスト教の話をすると心を魅かれていった。 そして、侍女を通じて教会とやりとりをし、書物を読むことで信仰を深め、受洗した侍女から密かに受洗し、ガラシャという洗礼名を受ける。

 慶長5(1600)年7月、忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣する。 その留守に石田三成が挙兵、大坂屋敷にいたガラシャを人質に取ろうと大坂城へ入るように命じたが拒絶され、翌日実力行使に出て兵に屋敷を囲ませた。 ガラシャは、屋敷内の侍女・婦人を外に出した後、自殺はキリスト教で禁じられているため、家老の小笠原秀清(少斎)がガラシャを介錯し、遺体が残らぬように屋敷に火を点けて自刃した。 この時、ガラシャが詠んだ辞世が、「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」(『細川家記』)だという。

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