『福澤諭吉書簡集』の槙村正直(2)小野組転籍事件など2013/09/13 06:41

 槙村正直宛、書簡番号142、明治6(1873)年1月27日付は、宇和島、大 洲両学校に英学教師として派遣する中上川彦次郎と四屋順三郎の京都学校視察 を依頼し、慶應義塾出版局の近況を伝えている。 福沢の翻訳書も、なかなか 製本が間に合わなかったのを、表紙製造局も開いて、製本一切を自前でするこ とにしたので、2月からは毎日千冊から二千冊の製本が出来るようになる。 2 月中旬からは、京阪へも書籍を沢山回すことができ、幾万冊でもお間に合わせ できるだろう。 また大阪、京都にも自分の所の製本所を開くつもりだ、など と書いている。

 書簡番号158、荘田平五郎・名児耶(なごや)六都宛、明治7(1874)年1 月4日付書簡。 前年11月に開設した慶應義塾大阪分校にいる荘田と名児耶 に、京都府大参事槙村正直に面会し、京都分校の開設について、何でも打ち明 けて相談するよう促している。 福沢は槙村を「かねて私の知己、役人肌にあ らず、実着(忠実でおちついていること。着実。)頼むべき人物なり」と書いて いる。 手紙の2日前の1月2日、槙村が三田の福沢邸を訪ねてきたので、京 都分校開設の意向を打ち明けて協力を求め、しかも責任者として荘田の名をあ げておいたとして、3日に東京を立った槙村の10日前後の帰任を見計らい、 京都に出向いて相談するようにと促した。

 書簡中に「京都府下に行はるゝポリチック之有様に付、我輩の悦ばざる箇条 もこれあり候えども、もとより我輩の関する所にあらず」とあり、解説には「ポ リチック之有様」とはなにか判然としない、とある。 『八重の桜』にも出て きたが、槙村正直は明治6(1873)年8月、小野組転籍事件に関連して、東京 で勾留される。 これより前、もと井善といっていた小野組が、戊辰戦で官軍 の勘定方となり、その後中央金融業界に乗り出していたのだが、当時は為替・ 銀行業務のたびに戸籍が必要とされたので、これを東京へ転籍したいと願い出 た。 これに対し、税収や寄付金が落ち込み、産業振興にも影響を受ける京都 府(長谷信篤(ながたにのぶあつ)府知事、槙村大参事)はこれを認めず、裁 判となった。 長州出身の木戸孝允と、司法省内に強い影響力を持つ佐賀出身 の江藤新平が、征韓論をめぐって対立していた新政府内の権力争いに、槙村は 巻き込まれる。 江藤は京都裁判所に北畠治房を送り込み、小野組の転籍を認 めるよう強く迫るが、京都府がその命令に従わないため、司法省は東京に来て いた槙村の身柄を拘束し収監する強硬手段に打って出る。 『八重の桜』では、 山本覚馬と八重が東京へ来て、槙村赦免の運動をする。 いずれ詳述するが、 覚馬は8月から9月にかけて、木戸孝允と4度会い、9月4日には福沢諭吉も 交えて談論したと、木戸の「日記」にあるそうだ。(松本健一『山本覚馬』中公 文庫) 征韓論に敗れた江藤新平が10月24日参議を辞職したのを機に、岩倉 具視の政治決断で槙村は釈放される。 もっとも法律は曲げられず、京都府は 小野組の転籍を認め、槙村には12月31日罰金30円の判決が出て、再び京都 府の行政を担うことになる。 福沢邸訪問は、その直後、京都に帰る直前とい うことになる。 (なお、ウィキベディアの「小野組転籍事件」には、贖罪金 30円の判決が出たあと、これに従わない槙村が身柄を拘束され収監された、と あるが、時系列的に疑わしい。)