季題研究・「夜学」の歴史2013/09/17 06:23

 「夜学」と「糸瓜」の句会で、「夜学」の季題研究は、ななさんだった。 み ずから夜学で学び、永年夜学で教えたという、上田利男さんの『夜学』(人間の 科学社)という本を発掘してきて、夜学の歴史をまとめて紹介してくれた。 「夜 学」への愛情のこもった暖かみのある素晴らしい本で、巻末の参考文献だけで 396冊、さらに地方史が76冊も挙げられているという。

 日本での夜学の始まりは、中国から伝わった漢字を学び、燈火が使われるよ うになった頃、向学心に燃えた人たちの夜学からと考えられる。 中世には、 学問所が出来、天皇、公家、上級武士などの特権階級の個人的、閉鎖的な学問 所の他、金沢文庫や足利学校など少し開かれた学問所が存在した。

 夜学が組織的に発展したのは、江戸時代以降で、私塾や寺子屋の一部や心学 の夜講など、働きながら学ぶ夜学への関心が高まるようになった。 私塾では 中江藤樹の徹底した夜学の藤樹塾、本居宣長の鈴屋塾の夜学、吉田松陰の松下 村塾の夜学、洋学の緒方洪庵の適塾の夜学など、後世に大きな影響を残した。

 明治20年代に入ると、諸産業の工場ができ、新たな労働需要も生れて、尋 常小学校に通えない児童も雇うになった。 そのため工場が就学に必要な措置 を取らなければならないという工場法ができ、工場内教育施設や尋常夜間小学 校や特殊夜学校が各地に増えた。 しかし官営工場では読み書きよりも、徒弟 制度を活かし職工へ技術を教えることを優先していた。 一方、大企業では、 初等教育を受けていない職工たちに基礎学力を身に付けさせ、集団生活に適応 させる企業内教育に、夜学が行われた。 富岡製糸工場や長野県松代町の西条 村製糸場の「六工社」などは、その例である。

 余り知られていないが、慶應義塾にいち早く夜学が開かれた。 明治12年 12月、慶應義塾の中に正規の課程とは別に夜間法律科が開かれた。 アメリカ に留学して法律を学んだ目賀田種太郎始め5名が、帰国後、日本語で法律学を 教授する企画をし、福沢諭吉にその思いを話したところ、すぐに理解が得られ、 さっそく前段として義塾の講堂を使う協力を得て実現したのが、慶應義塾の夜 間法律科であった。 社会的に注目された義塾夜間法律科だったが、9か月ば かりで、目賀田らはかねてからの構想どおり、専門学校の設立にとりかかり、 京橋にあった夜間簿記講習所を教場として専修学校を開校、夜間法律科の学生 は止む無くこれに転入した。 これが夜間の伝統を誇る、後の専修大学の源流 である。 この時も福沢諭吉は自身が創立した夜間簿記講習所を使わせ、惜し げない援助の手をさしのべた。

 東京物理学講習所(東京理科大の前身)は明治14年、東京大学で仏語物理 学科(馬場註…物理学科は当初フランス語物理学科だった。8月25日の当日記 「田中館愛橘は山川健次郎の物理学科を引き継ぐ」参照。)を専攻した21人で 創立された。 大学を出たばかりの理想に燃えた青年たちが、国のため理学普 及の礎になろうと、仕事を終えた夜に無給で働き、借校舎を転々とし、資金も 他に依存することなく苦労して運営した。 翌年には数学科も設けられ、東京 物理学校と呼ぶようになる。 生徒が次第に増え、明治30年には昼間部もで き、昼夜二部制となる。 漱石の坊ちゃんが卒業したとされる学校だ。  大阪では、明治19年法学普及の理想に燃えた関西法律学校(後の関西大学) が夜学から出発し、京都では、明治33年京都法政学校(後の立命館)が夜学 校として働く多くの青年たちに希望を与えた。