皇居周辺トイレの方角・銅像の視線 ― 2013/10/20 07:04
「歩こう会」、前は通っても、その存在すら知らなかった「太田道灌公追慕之 碑」を見た後、小人数の利でタクシーで日比谷国際ビルに移動、和食「波奈」 で昼食をした。 その席で私が配ったのが、林丈二さんの『街を転がる目玉の ように』(筑摩書房・1989(平成元)年)という本のコピーだ。 林丈二さん は、路上観察学会(赤瀬川原平、藤森照信、南伸坊さんらの)の会員で、マン ホールのふた、塀の穴開きブロックのパターン、都内各駅の切符のパンチ屑調 査などをした人物だ。
「皇居周辺素人方位判断」と題したこの研究は、靖国 神社の本殿に一番近いトイレに入り、「大」用の小部屋がジグザグに並び、便器 が壁の面を向かず、45度の角度で角っこを向いているのに気付いて、疑問を感 じたことに始まった。 よくよく考えて、どうやら北西の方向にある本殿と、 南東にある皇居を意識しているのではないかと思いあたる。 そこで磁石を持 って、皇居周辺のトイレのキンカクシの方向の調査、同じく銅像の視線の方向 の調査を開始する。 結果は、それぞれ図にして、『街を転がる目玉のように』 に掲載されている。 皇居周辺23か所のトイレの内、19か所82.6%で、キン カクシは、吹上御所及び新宮殿を向いていない。 ただ、4か所の例外があり、 それは皇居外苑坂下門近く、半蔵門近く、北の丸公園内、そして靖国神社の調 査のキッカケになったトイレの近くにもあった。
つぎに皇居周辺の銅像の視線の方向である。 靖国神社の大村益次郎は上野 の山の方向を見守る。 九段坂の馬に乗った大山巌、品川弥二郎(長州藩士、 吉田松陰門下、高杉晋作らと討幕・戊辰戦争に活躍。明治25(1892)年松方 内閣内相として選挙大干渉を行う)は、皇居と反対の北、日露戦争の満州総司 令官の大山巌は中ソ国境方面を、品川弥二郎は戊辰戦争の東北を睨む。 近く の女性像は南南東の皇居でなく、東を向いている。 九段下、蕃書調所跡の椅 子に掛けた平田東助(米沢藩士の子でドイツ留学、山県有朋系有力官僚、政治 家。農商務相、内相、内大臣。)は、出身校の大学南校(東京大学、前身は蕃書 調所)の方向を見ている。 北の丸公園内、北白川宮はなるほど皇居新宮殿を 見ているが、吉田茂は同じ方角ながら微妙に新宮殿の左に視線を逸らしている。 気象庁前の和気清麻呂は、東京駅と有楽町駅の間あたりを、皇居前広場の馬に 跨った楠木正成は西の方を目指している。 その楠木正成の視線の先、三宅坂 の三人の裸婦「平和の像」は例外的に新宮殿を見ている。 千鳥ヶ渕墓苑付近 の女性像も、不思議と吹上御所を向いているのだ。
どうです、林丈二さんの目玉の付けどころ、なかなか面白いでしょう。
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