西郷と庄内を警戒する大久保利通 ― 2016/02/25 06:39
小説『遺訓』の西郷隆盛と酒井玄蕃の話題は、西郷の下野以来、西郷への仕 打ちに怒る庄内が蜂起しかねないと、庄内にも岩倉公や大隈公の密偵が跋扈す るようになっていて、先日は薩摩の示現流の剣を遣うものまで現れた話になる。 戊辰戦争後「庄内の恩人」西郷と庄内の親交が生まれ、4年前の明治3年(11 月)には、前藩主の酒井忠篤(ただずみ)が70人余の庄内藩士を引き連れて、 鹿児島に入り、軍事教練を受けた。 そのまま明治4年まで(4カ月)滞在し、 西郷が参議となって政府出仕するとき、一緒に上京した。 「薩摩藩士、庄内 藩士、ぞろぞろと東京に列をなして、もはや官軍も賊軍もない。新しい日本の 姿を目にみたようで、西郷は失いかけた希望の光が、再び総身に満ちる気がし た。」 その酒井忠篤、明治4年に政府に奉職、兵部省七等出仕で、御練兵御 用掛を拝命、明治天皇の御相手なども務めたが、明治5年4月から陸軍少佐の 身分のまま、ドイツ陸軍に留学中だった。 「忠篤公なら、よか指揮官になっ てくれもんそ。ときが来れば、ロシアでも清でも活躍してくれもんそ」 西郷 は、前に庄内に請われて軍事教練をしたような学校を鹿児島につくって、士族 を集め、鉄砲、大砲、学問を教えて、ロシアとの戦争に備えたいという話をす る。
「四、佐賀」。 大久保利通が征韓論争を利用して江藤新平を下野させたのが、 明治6年政変の核心だった。 大久保の目算通り、4カ月後、佐賀の乱が起き、 平定した。 大久保が庄内に神経を尖らせるのは、庄内が西郷と結びついてい るからだった。 鶴岡から鹿児島に使者が送られていた。 参事松平、権参事 菅(すげ)以下、酒田県の県官なら残らず監視していたが、東京の兵部省に出 仕しているからと警戒せずにいた酒井玄蕃が、知らぬ間に退官していたのは、 盲点だった。 西郷を旗頭に薩摩の士族が立ち上がるなら、江藤を擁した佐賀 の乱の比ではない。 これに庄内士族が呼応すれば、兵力を西に集中できなく なり、政府に不満を抱く諸勢が続々決起すれば、鎮圧戦は絶望的だ。
西郷とは、どうやって和解するか。 「今回は泣いてもらったと、済まなく 思う気持ちが大久保にはある。征韓論、あるいは遣韓論、征露論かもしれなか ったが、いずれにせよ江藤払いのために利用した。ああ、まこち、西郷どんに 含むところはありもはん。」 「西郷となると、江藤のような小物とは訳が違う。廃藩置県然り、地租改正 然り。徴兵令然りで、西郷なしで明治政府が行いえた大改革など、ひとつもな い。」
大久保は、隆盛の実弟、西郷従道陸軍中将を呼び、鹿児島へ行き、兄隆盛に とりあえず兵を八百ほど都合してくれないか、と台湾遠征の話をすることを頼 む。 どこかで戦争することで、不平士族に働き場所を与え、その怒りを逸ら すというのは一案である。 3年前の明治4年11月、琉球八重山の漁民が、台 湾に漂着したが、そのうち54人が惨殺される事件が起き、台湾を領する清国 と外交問題に発展した。 それと同時に琉球を管轄する鹿児島県の県権令大山 綱良から、懲罰のための台湾出兵も建議されていたのだ。
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