パナマ帽の値段2016/10/26 06:36

 ドラマ『夏目漱石の妻』の「やっかいな客」で、塩原昌之助(竹中直人)が 朝日新聞の給料は800円だそうでとか言い、漱石のパナマ帽を見つけ、高いん でしょうな、私もかぶってみたいもんだと言って、かぶってしまう。 脚本を 書いた池端俊作、岩本真耶は、おそらく『吾輩は猫である』六で迷亭がかぶっ てきたパナマ帽の話を下敷きにしたのであろう。

 こう暑くては猫といえども遣り切れない、皮を脱いで、肉を脱いで骨だけで 涼みたいものだと英吉利(イギリス)の牧師でとんち家のシドニー・スミスと かいう人が苦しがったそうだが、吾輩もせめてこの淡灰色の斑(ふ)入りの毛 衣だけはちょっと洗い張りでもするか、もしくは当分のうち質にでも入れたい ような気がする。 苦沙弥先生は、書斎でいつもの昼寐をしている。 勝手に 上がり込んだ迷亭は、風呂場でざあざあと水を浴び、「いや結構」「どうも良(い) い心持ちだ」「もう一杯」などと家中に響き渡るような声を出す。 そして「奥 さん、苦沙弥君はどうしました」と座敷にずかずか上って来て、帽子を畳の上 に抛(ほう)り出す。

 細君を相手に、さんざんに、あんまり八釜しく駄弁っているので、苦沙弥先 生が起きてきて、寄木細工の巻煙草入れから「朝日」を一本出してすぱすぱ吸 い始める。 向うの隅に転がっている迷亭の帽子に眼をつけて「君帽子を買っ たね」。 「まあ奇麗だ事。大変目が細かくって柔らかいんですね」と細君は頻 (しきり)に撫で廻わす。 「奥さんこの帽子は重宝ですよ、どうでも言う事 を聞きますからね」と拳骨をかためてパナマの横ッ腹をぽかりと張り付けると、 なるほど拳(こぶし)ほどな穴があいた。 それを拳骨で元に戻し、次には鍔 (つば)と鍔とを両側から圧し潰して見せる。 潰れた帽子は麺棒で延(の) した蕎麦のように平たくなる。 それを片端から蓆(むしろ)でも巻く如くぐ るぐる畳む。 「どうですこの通り」と丸めた帽子を懐中へ入れて見せる。 「不 思議です事ねえ」と細君は帰天斎正一(しょういち)の手品でも見物している ように感嘆すると、迷亭もその気になったものと見えて、帽子をわざわざ左の 袖口から引っ張り出して「どこにも傷はありません」と元の如くに直した。 最 後にぽんと後ろへ放(な)げてその上に堂(ど)っさりと尻餅を突いた。

 「あなたも、あんな帽子を御買になったら、いいでしょう」 「苦沙弥君は 立派な麦藁の奴を持ってるじゃありませんか」 「ところがあなた、先達て小 供があれを踏み潰してしまいました」 細君はパナマの価段を知らないものだ から「これになさいよ、ねえ、あなた」と頻りに主人に勧告している。

 朝日新聞連載のその回(8月30日)の註に、【パナマ】パナマ帽の略。中南 米原産のパナマ草で編んだ帽子。 岡恵里さん(朝日新聞出版)の解説には、 「パナマ帽は当時流行の高級品で、明治38(1905)年6月の帽子屋の新聞広 告では、「麦帽」は最高でも4円なのに、パナマ帽は8円50銭~17円。漱石 は37年、俳体詩でも「パナマの帽を鳥渡(ちょっと)うらやむ」と吐露、「猫」 の原稿料で購入したのは38年7月だ。」とある。 なお、『吾輩は猫である』 の『ホトトギス』への連載は、明治38年1月から翌年8月までの断続連載だ った。