松木弘安(寺島宗則)提案と『英国策論』2017/01/24 06:38

 私は昔、12月7日に出した「薩道愛之助」に、こう書いていた。  「「薩長・イギリス」対「幕府・フランス」という図式で考えてみれば、維新 回天におけるサトウの役割は、元勲のそれに匹敵する。」

 そこで、改めてアーネスト・サトウのことを考えるために、石井孝さんの『明 治維新の舞台裏』第二版(岩波新書)と、萩原延壽さんの『遠い崖』(5・6・7 朝日文庫)の関係個所を読み直してみることにした。

 まず、『明治維新の舞台裏』。 1月19日の「“青い目の志士”アーネスト・ サトウ」に、私はサトウが慶應2(1866)年1月30日、ジャパンタイムズに 投稿し『英国策論』として流布した論説に関連して、「その半年前、慶應元(1865) 年6月、ロンドンで薩摩の寺島宗則がイギリス政府に日本の情勢を訴え、諸大 名の連合国家の方向への支援を要請していた。 その後に出されたラッセル外 相の訓令は、サトウの目指すものと一致していて、ひと月後、サトウはジャパ ンタイムズに投稿した。」と書いた。 この会見の日付と、外相の名前が相違し ていた。

 『明治維新の舞台裏』に「松木提案と『英国策論』」という節がある。 松木 弘安(のちの寺島宗則)は五代才助とともに薩摩藩の留学生をつれて渡英中、 旧知の間がらであるオリファント(かつて公使館書記官として江戸に駐在し、 第一次東禅寺事件で負傷した)の紹介で面会した外相クラレンドン伯に、薩摩 藩の政策を説いた(1866年3月20日ごろ(慶應2年2月はじめ))。 幕府が 貿易の利益を独占することに反対し、条約批准権を将軍から雄藩会議に移すこ とによって、政権を幕府から雄藩会議に移す方法だった。 松木は、条約改訂 がなされずに、兵庫が開港される場合、日本は内乱の危機にみまわれることを 説いた。 この改革の線は、かつて元治元年(1864)8月22日、オールコッ ク(パークスの前任、初代公使。英仏米蘭四国艦隊を率いての下関砲台砲撃が ラッセル外相の承認を得ていなかったので解任)が対日政策についての覚書で 提示したものにまでさかのぼることができる。

サトウが『英国策論』で展開している条約改訂論の根拠としている二つの大 きな事実は、将軍の権力の実体と諸大名の貿易要望である。 「われわれは、 たんなる一大名(将軍)と条約を結ぼうとするのではなく、日本のすべての人 にたいして拘束力をもち、かつすべての人の利益となるよう条約を結ぶことを 欲する。われわれはいまや、大君を日本の唯一の統治者と認める古くさい説を かなぐりすてて、他の同等な権利をもつ諸大名の存在を考慮にいれなければな らない。」

 松木のクラレンドン外相への提案と、サトウの『英国策論』における提案は、 不思議なまでに類似している。 『英国策論』の最初の部分が、ジャパンタイ ムズに掲載されたのは、1866年3月16日(慶應2年1月30日)、松木がクラ レンドン外相とはじめて会見したのは、3月20日ごろと推定され、当時の通信 状態から、両者が直接の関係をもつことは想定できない。 石井孝さんは、あ る共通の源泉から出たものと推定しなければならない、とする。 そうすると、 共通の源泉は、元治元年(1864)8月22日のオールコック覚書以外考えられ ないという。 その覚書では、条約の根本的改訂を目的とする諸侯会議と、同 時に外国代表の老中や指導的諸侯との自由討議が提案されていた。

 オールコックの後任のパークスは当初、出発直前に受け取った訓令(ハモン ド書簡)、「日本の国内問題への発言は「示唆」にとどめ、日本における改革は 日本人のみから出るようにみさせるよう」につとめて留意し、忠実に実践した。  サトウが日記に、上司パークスをローマ字で“jibun bakari riko to omotte iru” などと書いたのは、そのへんに違和感があったためだろう。

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