戦後の九電力体制と政府の仕返し2017/04/21 07:11

 戦前日本の電力体制は「国営」と「民営」の間を揺れ動くが、戦争が終わる と、「民営」という松永の構想に従って編成されていく。 その理由は、進駐軍 が「国家管理」という思想を嫌ったことである。 そのため「日本発送電」を 中心とする国家管理体制の復活という選択肢は消滅する。 1928(昭和3)年 に構想され、それ以降、自らの電力経営によって十分裏付けされ、ほぼ完成品 となっていた松永の構想が浮上したわけだ。 だが、占領下での「松永案」に 基づく電力再編は、日本政府の意向に反して、占領軍の権力を笠に着て実現さ れるという不幸な展開をたどる。 しかもポツダム政令という、占領軍の取り 得る最も強硬な手段を用いて実現されたのだ。 1950(昭和25)年11月24 日、電気事業再編成令と公益事業令が公布され、GHQ案による公益事業委員 会の創設と、松永案による九ブロック化を主要な内容とする電気事業再編成が 実施されることになった。

 占領軍の権力を笠に着て九電力体制を実現させたことにより、電力会社は日 本政府の恨みを買い、やがて仕返しを受ける。 サンフランシスコ条約が成立 して、独立を手にするやいなや、日本政府は戦前の「日本発送電」に代わる新 たな国策電力会社、「電源開発株式会社」を1953(昭和28)年に設立するのだ。  松永は、「この構想の理念は国家資本主義というべきものであろう、やはり九分 割・民営反対の考えが根底にあったためであろう」と、書き残している。

 竹森教授はこうコメントする。 戦前の「日本発送電」は曲がりなりにも送 電部門を含む会社だったから、それが復活したのなら、グリッド(送電網)の 弱さという、戦後の九電力体制の弱みを補完することもできただろうが、「電源 開発」は民間の電力会社では負担できないと考えられた大規模発電所の建設を 目的とした発電会社であったから、グリッドとの関わりは持たない。 その目 的は、佐久間ダムのような大型発電所の建設に象徴される、スケール・メリッ トの追求だった。 この目的は、やがて「電源開発」と人材面で関連の深い会 社、「日本原子力発電」が、1960年代のはじめに東海村で日本初の原子炉の操 業を行い、当初の原子力政策をリードすることによって、さらに明確な形を取 っていく。

 政府・通産省は、日本の産業政策として、先進国の持つ先端産業を自国の産 業メニューに加えること、そしてあくなき規模の経済性の追求を通じて、その 産業の国際競争力を高めることを目指した。 政府管理を嫌う松永の発言力の 強い九電力体制が、産業政策の意図に従順に従うと期待できないから、産業政 策を実行する「手段」として「電源開発」を創設したのである。 両者の対立 の事例がある。 通産省は「水主火従」の発電システム、水力発電を「ベース・ ロード」として、火力発電を「ピーク・ロード」とする発電システムを推奨し た。 これに対し電力業界は、「火主水従」の発電システムを進めていった。 ま た、通産省が火力発電を進める場合にも、石炭火力を主力にし、石油火力を補 助にした「炭主油従」の発電システムを推奨したのに対し、電力業界の方は、 安価で供給が安定している石油火力に重点を置く「油主炭従」の発電システム を追及していった。(つづく)