緒方洪庵の墓、「おとめ山公園」2017/04/25 04:59

 4月22日の土曜日、「早稲田・白山・駒込を訪ねて」という福澤諭吉協会の 第26回一日史蹟見学会があった。 最後の駒込というのは、福沢の師・緒方 洪庵の墓所のある高林寺と、福沢が庇護した朝鮮の開化派・金玉均の墓所のあ る真浄寺を訪ねるものだった。 実は私は、1990(平成2)年の同じ4月22 日に行われた第2回一日史蹟見学会で、高林寺と真浄寺に行っていた。 27年 前になる。 当時は若手の会員だったが、今は古参になっていることを実感す る。 その時は諭吉の曽孫・福沢美和さんが盲導犬アンナと参加されていて、 緒方洪庵の墓の前で、こちらも曾祖父だからと花を手向けられたのが印象に残 っている。 『福澤諭吉全集』第26巻の「福澤諭吉子孫系圖」を見ると、美 和さんは諭吉の長男一太郎の長男八十吉を父に、(緒方)淑子(よしこ)を母に、 長女として昭和2(1927)年に生れている。 この母上が洪庵の孫なのだろう。  美和さんは先年亡くなられて、遺産が福澤諭吉協会に寄付されたと聞いている。

 一日史蹟見学会では、同行の方からも、いろいろな情報を得ることが出来る。  このブログを読んで下さっている黒田康敬さんには、松永安左エ門について、 全く知らなかったことを教えて頂いた。 今回行った早稲田最寄りの高田馬場 近くに「おとめ山公園」というのがあるが、ここに松永安左エ門が住んでいて、 戦時中、空襲に遭った人々に炊き出しをしたという話だった。 さっそく「お とめ山公園」で検索する。 新宿区下落合2丁目、新宿区が整備し平成26年 10月26日に「区民ふれあいの森」として全面開園している。 妙正寺川・神 田川の落合崖線に残された斜面緑地。 江戸時代、この辺りは将軍家の鷹狩や 猪狩の場所で、湧水が他にないため休息所とされ、一帯を立ち入り禁止として 「御留山」と呼ばれたのが、現在の「おとめ山公園」の名前の由来だという。  明治以降は東西に二分され、東側を近衛家、西側を相馬家が所有し、屋敷を構 えた。 相馬家は大正3(1914)年に長岡半平に広大な庭園「林泉園」を造ら せた。 その後、松永安左エ門の自宅兼茶室となっていた、という。 「炊き 出し」の件は、出て来なかった。 東西とも、戦後大蔵省管轄地となり放置さ れていたのを、森林の喪失を憂える地元の人たちが「落合の秘境」を保存する 運動を起し、昭和44(1969)年に新宿区が一部を公園として開園した。 隣 接地も取得し、拡張整備事業を進め、平成26年に「区民ふれあいの森」とし て全面開園したのだそうだ。

護国寺、大隈家墓所の四つ墓2017/04/26 07:14

 今回の一日史蹟見学会、「早稲田」については、素晴らしい案内人、解説者を お迎えしていた。 3月25日の土曜セミナー(まだブログで触れていない)の 講師でもあった佐藤能丸(よしまる)さんである。 早稲田大学大学史編集所 (現、大学史資料センター)で『早稲田大学百年史』の編纂に従事し、さらに 大学史・大隈重信関係その他の研究と共に、教育学部・政治経済学部で日本近 代史講義を担当、現在は早稲田大学エクステンションセンター・オープンカレ ッジ講師を務めている。 『近代日本と早稲田大学』『大学文化史』という著書 もあり、日本近代史関係の多くの辞典・事典の執筆や編纂に関わられた話は土 曜セミナーでお聴きした。

 池袋で集合、バスで最初に訪れた護国寺に佐藤能丸さんは待っておられた。  本堂の右側の広い一画、大きな石の鳥居の奥が大隈重信の墓所である。 「従 一位大勲位侯爵大隈重信之墓」と刻まれた墓標は、高さ約4・6メートルと見 上げるようで、麻布善福寺の福沢の墓の小ささとは対照的だ。 大隈の命日は 大正11(1922)年1月10日、偶然福沢の誕生日と同じで、早稲田では墓参、 慶應では誕生記念会がある。 17日自邸で神式の告別式の後、日比谷公園で国 民葬、護国寺までの沿道とで150万人が見送ったという。 大隈の墓の左側に は、翌年に没した綾子夫人の墓、右側に大隈の母堂三井子刀自の墓、その手前 には大隈の長女熊子の墓がある。

 綾子夫人は、旗本三枝七四郎の次女、江戸で育った。 若い時から評判の美 人で、明治2(1869)年19歳で31歳の大隈と結婚、以後50年連れ添い、し っかり者で几帳面、夫妻の仲むつまじさは当時評判だった。 後で、大隈庭園 でその銅像を見た。

 大隈の長女熊子は、文久3(1863)年佐賀に生れた。 母美登とは大隈の維 新政府出仕の頃離別、明治4(1871)年祖母三井子に伴われて上京、以来祖母・ 父・綾子夫人と生活した。 明治12(1879)年旧南部藩主の二男英麿(東京 専門学校初代校長)を婿養子に迎えて結婚した。 一時、仙台で暮したが、英 麿の東京高等商業学校就任で上京、夫妻共に早稲田の大隈邸に入った。 明治 35(1902)年英麿が連帯保証人になった件で大隈家から離別することになった が、熊子は大隈家に留まり、実妹光子(こうこ、生母は千代。)を養女として松 浦詮の五男信常を配して嗣子とした。(「実妹・生母は千代」は『エピソード早 稲田大学125話』(1989年・早稲田大学出版部)で佐藤さんが初めて明らかに したそうだ。大隈重信の血が信常の子信幸につながることになる。顔が重信に よく似ていたという。)

 熊子は、このように実母と夫とに生別するという境遇をたどり、その生涯を 大隈家の奥向き一切を事実上取り仕切ることに費やした。 明治22(1889) 年の遭難によって身体不自由となった父と感情の強い義母によく仕え、万事行 き届いた熊子の処置が、交際の広い大隈家に誰よりも必要とされたからであっ た。 容色秀麗のみならず、稀にみる教養人だったという。 酷評家で知られ る大隈のかつての盟友犬養毅でさえも、「熊子さんは男であらうものなら老侯よ り偉らかつたらう。政治家としても事業家としても大きなものになつたらう。 実に敬服すべき人だ」と賞賛した。

大隈重信記念室と早慶の関係2017/04/27 07:14

 つづいて早稲田大学早稲田キャンパスへ。 お馴染みガウン姿の大隈重信銅 像と、その脇にひっそりと座る高田早苗銅像を見る。 大隈重信は東京専門学 校(早稲田大学)をつくったが、口は出さず、実際の運営は主に高田早苗が担 当したそうだ。

 大隈重信銅像前の旧図書館、會津八一記念博物館の一階に、創立125年を記 念して設けられた大隈重信記念室がある。 大隈重信(八太郎)は、天保9(1838) 年(福沢誕生の3年後)、佐賀藩士の家に誕生。 維新後、英国公使との交渉 で才を評価され、政府中枢へ進んでいく。 明治3(1870)年、参議となった 大隈はさまざまな近代化政策を推進する。 しかし、国会早期開設の意見書提 出が導引となり、明治14年政変で辞任することになる。 政変の経過と影響 はこうだ。

国会開設請願運動が高まると政府も立憲政体への移行を決意したが、その時 期をめぐり漸進論の伊藤博文・井上馨と、早期国会開設論の大隈重信が対立し た。 そんな中、開拓使官有物払下げ事件が起こると、大隈に福沢、岩崎(三 菱)と組み民権運動を取り込んだ薩長派打倒の策動があるとして、伊藤らは岩 倉具視らと結び、明治14(1881)年10月、大隈らを罷免するとともに、払下 げを中止し、憲法欽定の方針と、十年後国会開設の勅諭を出して民権派の反撃 の矛先をかわした。 政変の結果、大隈傘下の矢野文雄、中上川彦次郎、尾崎 行雄、犬養毅ら福沢門下の若手官僚もいっせいに追われ、福沢が提唱していた イギリス流の議院内閣制導入の構想は完全に消滅し、日本の進むべき方向はプ ロシャ流欽定憲法採用路線に確定した。 伊藤らの依頼で政府広報新聞の発行 準備をしていた福沢は、明治15(1882)年3月独立不羈の『時事新報』を創 刊することになる。 大隈重信は同年4月、議会政治の開始をにらんで、立憲 改進党を結成して、政党政治を追い求めるとともに、同年10月、東京専門学 校(早稲田大学)を開校、政府からの圧迫に屈せず、「学問の独立」を掲げたの である。

 私には「明治14年の政変」が、日本近代のきわめて重要な分岐点になった という思いが、年々強くなっていて、この政変は、もっと言及され、研究され るべきだと考えている。 2014年10月、早稲田大学で大隈重信記念室を見て、 早慶両校が協力して「明治14年の政変」の共同研究ができないものかと、「「明 治14年の政変」の共同研究を」<等々力短信 第1064号 2014.10.25.>を 書いた。 その直後、福澤諭吉協会土曜セミナーでお見かけした佐藤能丸さん に「等々力短信」をお渡ししたのだった。

http://kbaba.asablo.jp/blog/2014/10/25/7473082

≪明暗≫・早稲田大学教旨・大隈庭園2017/04/28 07:14

  會津八一記念博物館では、特別の日にしか展示しないという、横山大観・下 村観山の≪明暗≫をたまたま鑑賞することが出来た。 佐藤さんに教わり、館 の正面入口に立ち、徐々に前へ進んで、階段上に、日輪が雲間からゆっくりと 昇って来るのを見た。 やじ馬は最近、倉本聰のテレビ朝日ドラマ『やすらぎ の郷』で大観の値段を聞きかじったので、数年前まで世界一大きな紙だったと いう継ぎ目のない越前岡太紙(越前市大滝町に紙祖神 岡太神社がある)に描か れたこの絵、数十億円はするのだろうと思った。 博物館のパンフレットは直 径4・5メートル、『エピソード早稲田大学125話』(1990年2月・早稲田大学 出版部)では5・4メートル、どちらが正しいのか、それが疑問じゃ(by坪内 逍遥)。

 會津八一記念博物館を出て、正門前へ行くと、「早稲田大学教旨」が掲げられ ている。 建学の理念の三本柱は、「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造 就」。 大正2(1913)年、創立30周年記念祝典で大隈重信総長が宣言、草案 は高田早苗、坪内逍遥、天野為之、市島謙吉、浮田和民、松平康国などが作成 した。 当初、第四項は「早稲田大学は模範国民の造就を本旨と為すを以て、 立憲帝国の忠良なる臣民として個性を尊重し、身家を発達し、国家社会を利済 し、併せて広く世界に活動す可き人格を養成せん事を期す。」となっていたが、 第二次世界大戦後「立憲帝国の忠良なる臣民として」が削除された。 昭和12 (1937)年につくられた正門前の碑文は、歴史的資料として、早稲田大学はそ のままにしている。 「造就」「身家」「利済」、どれも難しい言葉だ、『広辞苑』 になかった。

 その正門前、道路を隔てて、大隈講堂や大隈庭園がある。 大学紛争の頃、 道路の両側は、大学構内だから検挙できないが、道路は公道だから、道路に下 りると検挙されたという。 30年ほど前、いろいろお世話になったけれど定年 になりましたと、早稲田専属の私服が佐藤さんの所に挨拶に来たそうだ。

 大隈庭園の入口には、ピンクの可愛らしい建物があって、Uni. Shop & Café 125 につづいている。 早大で一番古い建物だそうで、大隈邸の頃は馬丁小屋、 佐藤さんが学生の頃は交通公社だったという。 大隈庭園は新緑が美しく、広 い芝生もあり、学生たちの憩いの場らしいが、土曜なので家族連れが遊んでい た。 左手は大隈会館、その奥はリーガロイヤルホテル東京。 右奥の築山に ある大隈綾子夫人の銅像を見て、下りたところに800余年の歴史を持ち昭和27 (1952)年に飛騨から移築された古民家、完之荘(かんしそう)がある。 完 之(かんし)とは、寄贈した校友・小倉房蔵氏の雅号とのこと。 佐藤さんの お友達がお見合いをしたそうだ。

大隈重信の右脚は残った2017/04/29 06:30

 明治22(1889)年10月18日午後4時過ぎ、御前での閣議を終えた大隈外 相は、馬車で霞が関の官邸に向った。 馬車が外務省の門前にさしかかったと ころ、フロックコート姿の男が近づいて来て、馬車をめがけて爆弾を投げつけ た。 大隈は「馬鹿者めが」と男を一喝したが、右足に重傷を負った。 男は 爆弾の破裂を見とどけると、短刀で咽喉をかき切り、その場に斃れた。 犯人 は、大隈の条約改正案に反対する福岡出身の玄洋社社員来島恒喜とわかった。  被害者である大隈は、来島を「愛国の精神を以て行動したる志士として賞賛」 し、その行為も「献身的行為にして身を殺して仁を成したるものなり」といい、 「勇者」と称え、毎年その命日には度量の広い綾子夫人と共に墓前に香華を手 向けたという。

 大隈重信記念室に、大隈が遭難当時身につけていた破れた衣服と靴や帽子が 展示されている。 大隈は馬車の中で、左脚に重ねて組んでいた右脚の膝と足 首の二か所に、致命的な損傷を受けていた。 大隈は気丈にも「速やかに切断 せられよ」と言い、駆け付けた帝大のベルツ博士の立ち合いで、日赤の橋本綱 常医師の指示のもと、順天堂の佐藤進医師の執刀で手術が行われた。

 切断された右脚はアルコール漬けにされて、大隈邸に置かれていたが、やが て赤十字中央病院に寄付され、参考品として保管されることになった。 現在、 渋谷の日本赤十字看護大学に移管され、ホルマリン漬けで保存されているとい う。(『エピソード早稲田大学125話』(1989年・早稲田大学出版部)、丸尾正 美氏の記述による。) なぜ、大隈重信逝去の際に、一緒に護国寺に埋葬されな かったのか。 市島春城『大隈侯一言一行』に、そういう話もあったが、「赤十 字社では、偉人を記念する意味と医学上の研究に資する目的とから、矢張、大 切な宝として、赤十字に保存したいと言うので、到頭、其意を容れて、棺に収 めなかった。」とあるそうだ。