中津・小倉・下関・萩の旅(1)〔昔、書いた福沢120-1〕2019/10/01 07:09

 『福澤手帖』第144号(2010(平成22)年3月)の「「中津・小倉・下関・ 萩の旅 第44回福澤史蹟見学会」

長年福沢をかじりながら、恥しいことに中津に行ったことがなかった。 福 澤諭吉協会の第44回福澤史蹟見学会、二泊三日で中津・小倉・下関・秋芳洞・ 長門湯本・萩を巡ってきた。 11月7日(土)8時羽田発の日本航空で大分空 港10時着。 快晴、無風、大分空港は国東半島の海辺にあり、中津方面へ行 く間、国東半島に石仏やお寺の多い話を聞く。 宇佐、中津周辺は肥沃そうな 平野が広がり、豊かな土地柄だという印象を持った。

   小春日や九重連山ぽこりぽこり

八面山の金色温泉こがね山荘で、新貝正勝中津市長や中津三田会の皆様と昼 食、鱧しゃぶ、鱈白子天麩羅など、豊前海の幸、山の幸。 青の洞門、耶馬溪 へ。 菊池寛の「恩讐の彼方に」は、中学の国語の教科書で読んだ。 僧・禅 海が競秀峰の難所に三十年の歳月をかけて、鑿と槌だけでトンネルを掘り進め た。 福沢は明治7年11月17日には日田-耶馬溪-中津を結ぶ「豊前豊後道 普請の説」を発表し、明治27年3月帰郷の時以来、競秀峰の風景を保全する ため、三年がかりで一帯の土地を買収し、ナショナル・トラスト運動の先駆け ともいわれている。 羅漢寺門前に、つい3日前の4日に建てられた「福澤諭 吉羅漢寺参詣記念之碑」も見てきた。

              念願の中津を歩く

中津に着く。 寺町を散策、石畳できれいに整備してある。 福沢家の菩提 寺、明蓮寺は古い木造の大きな寺だった。 曾祖母の墓、福沢家とほとんど一 体ともいう親戚飯田家の墓があった。 明蓮寺とその末寺の光善寺が不仲にな っているのを、福沢が直接本山に苦情を言った大谷光尊宛書簡がある(『福澤諭 吉書簡集』第四巻992番)。 偶然その書簡の発見を仲介したことを思い出す。 黒田如水孝高の謀略で知られる合元寺の赤壁はどぎつい色だった。 大法寺 (日蓮宗)では、福沢の長姉、小田部礼の墓を見た。

   小春日の中津寺町歩く幸

 いよいよ福沢旧居に到着。 以前福澤協会の旅行で知り合った相良照博さん が待っていて下さった。 福澤記念館で毎月開かれる「福沢諭吉の本を読む会」 などの講師をなさっている。 福沢と中津についてしばし歓談、最後は握手を して別れて来た。 福澤記念館の展示の中に、小幡篤次郎が小旗の号で詠んだ 俳句があった。  <映ふて水に花増す人の影(花時大坂桜宮)><うぐいすの法華経清し彼岸 寺><大仏や三千世界春の雲>。

 昔はなかった(有力な説)のに、昭和39年に“再建”された中津城天守閣 や、中津が海に面した町であることを、はっきりと見られなかったのは、少し 残念だった。

中津・小倉・下関・萩の旅(2)〔昔、書いた福沢120-2〕2019/10/02 06:28

             小倉から下関へ

 小倉のホテルクラウンパレスに泊り、二日目の8日(日)は、小倉城の隅に ある松本清張記念館からスタート。 松本清張は現在の北九州市小倉北区生れ、 43歳の昭和28年『三田文学』に書いた「或る『小倉日記』伝」で芥川賞を受 賞して上京、作家活動に専念した。 再現されている二階建ての書庫、約三万 冊という膨大な蔵書に目を奪われる。 門司へと向かう道が、案外の山中なの に驚く。 先日、下で自衛艦が衝突し火災を起こした関門橋を渡り、下関へ。 安徳天皇を祀る赤間神宮で、平家一門の墓や耳なし芳一堂を見る。 高浜虚 子の句碑<七盛の墓包み降る椎の露>があった。

  冬立つやあはれ小さき平家塚

 春帆楼の隣の日清講和記念館を見学。 日清戦争の明治28(1895)年春、 伊藤博文と李鴻章が交渉し十一か条の講和条約(「下関条約」)を結んだ場所だ。 前日、川崎勝理事(一泊の参加)に見てくるようにいわれた李鴻章の座った 位置、「李鴻章の道」も確認する。 日本側は、目の前の関門海峡に軍艦を通過 させて威嚇したらしい。 狙撃事件後の李鴻章は、大通りを避け、山沿いの小 径を往復したそうだ。 下関といえば河豚(ふく)、名前だけは知っていた春帆 楼で、昼から贅沢な「ふくづくし」となった。

  ふく食ふや春帆楼の昼日中

 関門海峡を見はるかす壇の浦、みもすそ川公園には長州藩が四カ国連合艦隊 を砲撃した八十斤カノン砲のレプリカが並んでいた。 ヘレン・ボールハチェ ットさんが百円玉を入れると、発射音が三回轟き、砲身から煙(蒸気)も出る ことを発見、みんなで楽しむ。

  小春日の関門海峡光る河

 下関から東北へ24キロ、奇兵隊の本拠地、吉田清水山にある高杉晋作の墓 と東行庵(とうぎょうあん)へ。 晋作の愛人だったおうのが、再び紅灯の巷 に戻っていたのを、頭を丸めさせて梅処尼とし、この地で菩提を弔わせること にしたのは「井上馨や伊藤博文のしわざ」という。 本心はどうだったのだろう。 15年後、福沢に大きな影響を与えた明治14年の政変も「井上や伊藤のしわざ」だったことを思う。

  紅葉して晋作行年二十七

 やや色づいてきている秋吉台を眺め、秋芳洞を出口の黒谷口から入口へ向か って約一キロを歩く。 二日目の立派な宿、長門湯本温泉の大谷山荘に着いた。

中津・小倉・下関・萩の旅(3)〔昔、書いた福沢120-3]2019/10/03 07:26

          萩で吉田松陰の史蹟を巡る

 最終日の9日(月)、降っていた雨も、萩に入って松陰神社に着いた頃には ほぼ上り、やがて晴れてきた。 萩への途中、画家・香月泰男さんの愛したい わゆる「私の地球」、絵やテレビ番組で見慣れた山陰三隅の風景が車窓を流れた。 萩で吉田松陰の史蹟を案内してくれたボランティア・ガイドの弘長久美子さ ん、吉田松陰の人と業績を伝えたいという熱意にあふれ、その「至誠」は真っ 直ぐに聞く者の心に通じたのだった。 松陰神社と、その中の松下村塾の建物 を見た後、松陰の誕生地と墓のある、城下町全体と日本海を見下ろす高台(田 床山麓)へ行った。 もうすぐ日本海という松本川の河口近く、雁嶋(がんじ ま)別荘で昼食。 食後、服部禮次郎理事長は、天保元年の吉田松陰と天保5 年の福沢諭吉の生れ年の4年の違いが、両者の運命と日本近代化に対する役割 の明暗を分けたと、今回の中津から萩への旅行を、短いスピーチで見事に総括 して下さった。

         萩の夏みかんと福沢のマルマレット

萩城の城下町周辺を自由散策。 武家屋敷に夏みかんが生っている。 夏み かんは萩の名物・特産品で、維新後、生活に困った武士の庭に植えさせたもの が発端だそうだ。 三本植えると子弟の教育費になるということで…。 それ で山口県の県花は夏みかん、県道や国道の県管轄部分のガードレールは、白で なく、オレンジ色に近い黄色で塗られている。

昼食後の服部さんの話にも出てきたが、福沢は夏みかんでマーマレードを作 っていた。 明治26(1893)年7月2日付、長州阿武郡萩下五間町五十三番 屋敷、松岡勇記宛書簡。 松岡勇記は『福翁自伝』で真っ裸になって物干に涼 む女中をどかしたという適塾の同窓生で、茨城県病院長も務めた医者。 松岡 が送ってくれた夏みかんの礼を述べ、マーマレードの作り方を教えている。

「…夏みかん到来、子供打揃ひ喜び候て毎日\/いたゞき居候。又かの皮は裡 面の綿のやうなる処を去り、表面の方を細に刻み、能くうでこぼして大抵苦味 を除き、一夜水にひやして、更に砂糖を入れて能く\/煮詰めし後ち、所謂マ ルマレットと為り、之をバンなどに付けて用ひ、誠に結構なり。マルマレット とはジャムの一種、西洋にてはヲレンジの皮にて製するものにして、舶来屋に て買へば〔此処に直径一寸七分高さ二寸五分ぐらゐの円筒缶の略図が描いてあ る…『全集』の注〕此位の鑵にて二十五銭位の小売なり。馬鹿に高きものに御 座候。其価は兎も角も、試に御製し被成度、宅にては昨日作りて甚だ評判宜し。 但し砂糖は思切て沢山に用、凡そ皮のうでたるものと当〔等〕分位に致し、或 は水飴を少し混ずるも可なり。随分面白き調理に御座候。」

福沢の中津から始まり、福沢とは無関係かと思われた萩で終ったこの旅に、 福沢のマルマレットという素敵な落ちがついた。

「福沢の威を借る」〔私にとっての福澤諭吉〕〔昔、書いた福沢121〕2019/10/04 06:57

 『福澤手帖』第146号(2010(平成22)年9月)の「「福沢の威を借る」〔私にとっての福澤諭吉〕」。

        「福沢の威を借る」〔私にとっての福澤諭吉〕

 先日亡くなった井上ひさしさんに、こういう言葉がある。 彼がつくった川 西町の遅筆堂文庫の壁に、あの独特の字の額がかかっている。 「むずかしい ことを やさしく/やさしいことを ふかく/ふかいことを おもしろく」。 そ れは、幕末から明治にかけて、福沢諭吉が試みたことでもあった。 ものを書 くとき、及ばずながら私がこころがけていることでもある。

今まで『福澤手帖』に寄稿させて頂いた数は、十一回を数える。 研究者で もない私に、なぜそんなことが起ったのか。 おそらく編集を担当された歴代 の先生方が、ただ「筆まめ」という一点に、ある種の安心感を持たれたからだ ろう。 その「筆まめ」の根源を尋ねれば、高校生の時に読んだ福沢の文章に 至る。 慶應義塾百年祭の昭和33(1958)年、伊藤正雄(甲南大学)著『福 沢諭吉入門 その言葉と解説』(毎日新聞社)、藤原銀次郎著『福澤先生の言葉』 (実業之日本社)に出合って、福沢の文章と考え方の面白さにいっぺんに魅了 されてしまった。

 「政党の名は「め組」・「ろ組」にて苦しからず」(「党名一新」明治24年)

 「もゝたろふが、おにがしまにゆきしは、たからをとりにゆくといへり。け しからぬことならずや。」(『ひゞのをしへ』明治4年)

 「鼠を捕らんと欲せば、猫より進むべし。鼠の来たりて猫に触れたる例を聞 かず」(『福翁百話』第五十六話「智恵は小出しにすべし」)

 小泉信三さんの著作からは、福沢の手紙の面白さを知った。 福澤諭吉協会 の土曜セミナーは、昭和48(1973)年11月10日の第一回以来、百三十数回 のほとんどを耳学問してきた。 そうして知った福沢の言葉や、先学から得た 知識を、水戸黄門の印籠のようにふりかざしてきた。 その最たるものは、「福 沢心訓七則は偽作」というのと、「福沢の生年の西暦」だ。 天保5年12月12 日は、単純に1834年でなく、1835年の1月10日に当る。 前者によって故 江國滋さんとの交流が出来、後者では『広辞苑』にまで苦情を言った。 何も 持たない者が、なぜか認めていただけたのは、福沢と福沢学の威を借る狐とな った、おかげであった。

『福翁自伝』の表と裏―松沢弘陽さんの読みなおし(1)〔昔、書いた福沢122-1〕2019/10/05 07:07

 『福澤手帖』第152号(2012(平成24)年3月)の「『福翁自伝』の表と裏 ―松沢弘陽さんの読みなおし―」。

 『福翁自伝』は、福沢の本の中で一番親しみやすく、今まで能天気に、面白 い面白いと言って読んできた。 そこへ「ガツーン」と、強烈な一発をくらっ た。 今まで私が読んだ積りになっていたのは、何だったのか。 双六の「振 出しに戻る」というやつである。

 昨秋10月29日、松沢弘陽さんの講演「『福翁自伝』を読みなおす―私にと っての福澤諭吉」(三田演説館、福澤研究センター・福澤諭吉協会共催) を聴 いた。 そして松沢さんが綿密な校注を担当した「新日本古典文学大系 明治編」 『福沢諭吉集』(実は『福翁自伝』だけの収録。岩波書店、昨年2月刊)を手 に入れた。

 その『福沢諭吉集』の、松沢弘陽さんの解説「自伝の「始造」―独立という 物語」から始めたい。 『福翁自伝』の特徴は、第一に著述と公刊という行為 自体が、日本の文化における「始造」であった。 それには自らの生涯の物語 によって、広く公に対して「独立の手本を示さん」という主題と意図があった。  福沢は自己の生の終わりを見すえて、死後の開かれた未知の多数の読者に「独 立の手本を示」すことを願った。 第二に、『福翁自伝』の中の福沢は、自分の ライフ・ストーリーの重要なことがらが、初めて語る真実であることを繰り返 し告白した。 松沢さんは、『福翁自伝』の一つ一つの語りを同時代史の証言と して、理解し、『福翁自伝』の豊かさを引き出すために不可欠であると、この本 の脚注と補注を通して、自ら「煩瑣なまで」という検証を行った。 先行研究 も博覧した、その検証の結果、福沢の語りには大小の誤りが多いことがわかっ た。 『福翁自伝』で語られる事実は、福沢にとってのその事実の意味(←二 字に傍点)に価値があるのであり、年代記や地誌や制度史上の正確さには関心 がなかったのではないか、という。 それは『福翁自伝』の第三の特徴にかか わってくる。 終始のびやかで平明な語りかけの文体でありながら、全体を通 じる基本的主題が一貫して保持されている。 そして主題の展開が構成的であ り、基本的な主題に従って、語る経験がはっきり選択されるスタイルだ、とい うのだ。 その一例は、こうだ。 福沢の活動の範囲の拡大と社会的地位の上 昇は、幕末の藩政改革・幕政改革と人材登用が引き起す社会的上昇気流に乗る ことによって進んだ。 しかし「一切万事、人にも物にもぶら下らずに(略) 世の中を渡るとチヤンと説を定めて居る」という「独立」の基本主題になじま ないと考えたのであろうか、このような改革機運の中で福沢に力を藉した人々 は『福翁自伝』の語りから省かれる。 たとえば中津藩改革派の人達、小幡篤 次郎(補注で復権が述べられる)、語られているより遥かに恩恵を受けたであろ う緒方洪庵夫妻、木村芥舟など。 他方、福沢が「独立」のために戦った敵を 強調するためであろうか、さまざまな旧制度の具象化ともいうべき悪役が、要 所要所で語られる。 たとえば、門閥社会の「大家(たいけ)の子」奥平壱岐。  近年の研究は、彼が無能でも、福沢に悪意をもって画策したのでもなく、むし ろその反対であることを明らかにしている。

 松沢さんは、全体を通じる主題を、閉ざされた小社会の中の孤立した自我が 「独立」に向かって自己形成する物語である、と読む。 閉鎖的な藩地で疎外 された孤立から出発し、自己を抑圧する政治体制と社会に働きかけ、あるいは 巧妙にしたたかに戦い、たびたび自我の危機をくぐり、「独立」の内実を豊かに し、また深めてゆく。