追悼 服部禮次郎さんの温顔と心遣い〔昔、書いた福沢123〕2019/10/07 07:31

 『福澤手帖』第157号(2013(平成25)年6月)の「追悼 服部禮次郎さん の温顔と心遣い」。(写真(林荘祐さん撮影)は、もちろん『福澤手帖』非掲載 のもの)

 服部禮次郎さんには、偉い人ほど「律儀・丁寧・親切」だということを教わ った。 昨2012年夏も、暑中見舞のお葉書を頂いた。 暑中見舞を出す習慣 のない私は、直立不動で拝読したのだった。 添書に「毎々貴重な通信をお送 りいただき、ありがとう存じます。天候不順のおりからご自愛切にいのり上げ ます」とある。

私が長く続けている個人通信「等々力短信」を読んで頂くようになったのは、 1996(平成8)年5月に、佐藤朔さんの後を受けて福澤諭吉協会の理事長にな られてからだった。 以来、土曜セミナーや総会で、博覧強記の見事なスピー チや総会議長の司会ぶりを、つぶさに拝聴することになった。

協会の史蹟見学会の旅行などでご一緒するようになって、直接お話を伺い、 いろいろと教えて頂く機会もできた。 毎回、企画の段階から周到に計画を練 られ、きちんと下見をなさって、解説の冊子まで準備されていた。 ご著書『福 澤諭吉と門下生たち』(慶應義塾大学出版会)の、「福澤諭吉ゆかりの史蹟めぐ り」の章を読むと、中津、大阪、横浜、久里浜・浦賀、名塩・有馬・三田(さ んだ)・京都、浜松・鳥羽・近江、上州・信州、長岡・小千谷・柏崎、長沼・佐 倉など、ご一緒した旅行でのあれこれが思い出される。 慶應連合三田会会長 の威力(ただ、それだけでないことは後述する)は抜群で、各地の三田会の方々 は、われわれ福澤協会一行を暖かく迎えて下さり、とてもいい思いをさせて頂 くことが出来た。

2005(平成17)年10月の鳥羽の御木本真珠島では、VIPルームにゆったり 座って海女の実演を見ることが出来た。 孫の門野進一さん・豊子さんご夫妻 に迎えられた門野幾之進記念館では、靄渓山人、門野幾之進の横額「源泉滾々」 の滾々(こんこん)が読めずにいると、服部さんが『福翁百余話』にあると教 えて下さった。 『福翁百余話』八「智徳の独立」に、「独立自尊の本心は百行 (ひゃっこう)の源泉にして、源泉滾々到らざる所なし。是れぞ智徳の基礎の 堅固なるものにして、君子の言行は他動に非ず都(すべ)て自発なりと知るべ し」。 福沢精神の核心、まさに源泉なのであった。

2007(平成19)年10月の軽井沢では、万平ホテル勤務の私の友人がもたら した情報に興味を示された。 福沢一太郎の長女遊喜(雪)は小山完吾に嫁し たが、小諸の小山家の蔵にその荷物があるというのだった。 服部さんは、早 速ご存知の小山家の関係者に問い合わせる調査をなさっている。

旅行の最後を締めるご挨拶にも、毎回感心した。 旅行の意義を見事に総括 なさった後、関係者への感謝はもとより、バスの運転手さんやガイドさんにも、 配慮を忘れなかった。

 雲の上のような方だったのに、私のような者でも、対等に扱って下さった。 2003(平成15)年10月に『福澤諭吉かるた』を出された時には、交詢社の土 曜セミナーで「このかるたの元祖は、馬場さん」と、言って下さった。 その 年の2月、私が「福沢諭吉いろはがるた」を試作していたからである。 服部 版は「い 一月十日は生誕記念日」「ろ ロンドン・パリーをつぶさに視察」「は  母・兄一人・姉三人」と、福沢の一生を扱ったもので、私のは「は 馬鹿不平 多し(全集二十巻、472頁)」「つ つまらぬは、大人の人見知り(百話九十八)」 「ね 鼠を捕らんとすれば、猫より進むべし(百話五十六)」と、福沢の言葉で つくったものだった。

 一番の思い出は、わが生涯の最良の日となった2009(平成21)年7月4日、 友人たちが青山ダイヤモンドホールで開いてくれた「『等々力短信』千号を祝う 会」である。 服部さんはこうした会にもご出席下さったばかりでなく、祝辞 に当って、わざわざ馬場夫婦を壇上に上げ、とくに家内の「等々力短信」千号 への貢献に言及して下さったのだった。

 服部さんの温顔と濃やかな心遣いは、接する者に等しく、温かい気持と笑顔 をもたらした。 この一文を書かせて頂いて、それが人を動かす力を持ってい たことに、改めて気づいた。 慶應義塾にとっても、福沢研究においても、大 きな貢献をされた大切な方であった。