吉原や芝居町が年中行事をプロデュース2021/07/15 07:01

 今年の1月に出た岩波新書、田中優子さんと松岡正剛さんの対談『江戸問答』を、少し読んでみたい。 「江戸の多重性の秘密」という小見出しのところに、江戸の文化や界隈を考えると、遊廓や芝居町の出現が大きい、という話がある。

 田中優子さんは、江戸という都市の中に、遊廓というもう一つの都市があり、芝居町という都市があったと、そんなふうに見たほうがいい、とする。 芝居町には芝居茶屋、遊廓には仲之町の茶屋があって、食べもの屋などにもつながり、基本的にはプロデュース集団だった。 江戸で遊廓と芝居町は、非常に重要な、まさにデュアルな関係性をもって存在している二つの大きな町なのだ。 東京におけるスポット、渋谷、新宿のように、町の中の町として、ある種の個性的なまとまりというものがある。

 プロデュース集団として、つねに年中行事をつくっている。 それによってコンテンツがあらわれ、それがメディア戦略になっていく。 正月は新年のあいさつ回りがあり、太神楽の芸人が吉原に入る。 正月七日の人日(じんじつ)、三月三日の上巳(じょうし)、五月五日の端午、七月七日の七夕、九月九日の長陽という五節句は重要な行事だ。 桜の咲く頃には広重の「東都名所新吉原五丁町弥生花盛全図」で俯瞰しているように桜の木を外から持ってきて桜祭りとなる、明治には女性や子どももここに入ってきて見物している観光地になる。 七月の盆のときは、「玉菊灯籠(たまぎくどうろう)」の行事が、茶の湯、生け花、俳諧、琴、河東節(かとうぶし)の三味線などに才能を発揮した玉菊という遊女を偲んでおこなわれ、仲之町全体に書や絵が描かれた灯籠が下げられ、吉原が美術館と化す。 秋の始まりである旧暦八月一日の八朔(はっさく)では、遊女たちがみんな白い打掛を羽織り、その日から一カ月にわたって「仁和歌(にわか)」というお祭りが展開される(喜多川歌麿が多くの「仁和歌」の情景を描いている)。 酉の市が近くに立つので、その客たちを迎える日があり、餅搗きもおこなわれる。