「福澤諭吉と在来産業―酒造業に対する考え方を中心に―」2024/05/22 07:02

 そこで井奥成彦名誉教授の「福澤諭吉と在来産業―酒造業に対する考え方を中心に―」である。 福沢の生きた時代、日本の工業で最も生産額が大きかったのは酒造業だった(ただし機械による生産なし(手工業))。 福沢が国家の経済像を考えるに際して、そのような産業に目を向けないわけはなく、さまざまな著作で酒造業に言及している。 この講演では、近代産業が急速に成長する中で、日本の在来産業をどのように考えていたかを探るという。

 在来産業とは、近代以前から日本に存在する産業で、酒造業、醤油醸造業、織物業、陶磁器業など。 近代産業は、富岡製糸場のように器械を導入した産業で、やがて酒造業などでも器械を導入するもの(ビールなど)が出てくる。 特に酒造業、醤油醸造業は、当時も今も世界をリードしている。 今、醤油は世界の調味料だし、海外での日本酒ブームがある。 日本の大手醤油会社が海外に工場を持ち、最大手のキッコーマンの海外での醤油生産(海外8か所に工場)は国内の生産の倍近く。 日本酒ブームで、大手の日本酒会社は海外に工場を持ち、輸出も盛ん。 旧東ドイツのハレの大学へ行くが、さくら寿司というベトナム人経営の寿司屋に日本酒が8種置いてあり、客はドイツ人だった。 「獺祭」はアメリカに工場がある。

 福沢が酒造業に注目したのは、(1)財源としての期待、(2)酒を造る人に「ミッズル・カラッス」として期待、(3)日本の「経験」と西洋の科学の融合による酒造業の近代化。

 (1)財源として酒造業に期待。 当時、日本の工業生産物の中で最も生産額が多かった酒造業に、税の歳入財源として期待した。 酒税は、地租と同じくらいで、地租より多くなる可能性がある。 天保9(1838)年の盛田久左衛門の酒造改革を評価し、全国的に旧法で酒造すると仮定すると3400万円の損になり、それは政府歳入の半額より多い、酒造改革した新法は国に益すること大である。 酒税の税率を上げる場合など、酒造の時期に合わせ納税の時期を考慮し、公正な税の取り方も主張した。 福沢の亡くなる前年の1900(明治33)年には、地租を抜いて国の税収の1位になった。

 (2)酒を造る人に「ミッズル・カラッス」(中産階級)として期待。 酒造業を営むのは、当時の豪農の典型的パターン。 経済力、知力(教養)があり、政治力も。 多くの豪農の子弟が、慶應義塾に学んだ。 福沢は全国の豪農の家を訪ね回り、酒を酌み交わし、教えを説いた。 贋造、模製、密売、脱税などから善良な酒造業者を守るため、専売免許商標条例などで保護すべきだ。 明治17(1884)年商標条例制定。

 (3)日本の「経験」と西洋の科学の融合による酒造業の近代化を説く。 経験に基づく従来の酒造業に対し、西洋の科学との融合を説き、科学的根拠に基づく醸造を主張、酒造業の近代化を促す。 明治16(1883)年春頃、尾州知多郡の酒造家百数十名、工部省に請願し、工部大技長宇都宮三郎を招聘、「化学器械学の主義」を習う。 その秋、伊藤孫左衛門ら、清酒研究所設立。 宇都宮三郎は福沢の親友、「宇都宮君の防腐法を以て此損失を免かれしめたるは独り知多郡の酒造家を利するのみならず日本国の損失を救ふたるもの」。 「一国の貧富は此殖産の事を学問視すると否とに在て存するものと知る可きなり」(『時事小言』)