5歳の嵩と、3歳の弟・千尋 ― 2025/06/13 07:22
父・柳瀬清が死んだ時、母・登喜子は30歳、嵩は5歳、弟の千尋はもうすこしで3歳になるところだった。 葬儀は広東、東京の朝日新聞社、在所村の三か所で行われた。 嵩が梅の木の下で千尋とビー玉遊びをしたのは、在所村の葬儀でのことだ。
清は筋骨たくましいスポーツマンで、テニスと水泳が得意だった。 読書家で文才があり、絵も上手かった。 登喜子に書き送った手紙には「ぼくは決して砂浜の砂の一粒ではない」「詩や文章を書くこと、絵を描くことは一生やっていく。そして必ず、自分の本を出したい」と書かれているそうだ。 思わぬ病によって若い野心は絶たれたが、文筆と絵の才能は嵩に、学業と運動能力は弟の千尋に受け継がれることになる。
父を失ったことで、幼い兄弟の運命は大きく変わった。 弟の千尋は、父の兄である寛の家に引き取られることになった。 高知県内の後免町(現・南国市後免町)で内科と小児科の開業医をしていた寛と妻のキミには子供がなく、清の生前から、千尋が養子になることが決まっていた。 嵩は、母の登喜子、祖母の鐵と高知市内で暮らすことになった。 鐵は夫に先立たれたあと、家族と折り合いが悪く、谷内家を出ていた。 母は外出がちで、あまり家にいなかった。 自活の道を見つけようと、琴、三味線、謡曲、茶の湯、生け花、洋裁、書道など、おびただしい数の習いごとをしていたのだ。 化粧が濃く、いつも香水の匂いをさせていた。 きりりとした太い眉に、大きな目、快活で、目の前にいる人とすぐうちとける性格だったが、嵩のしつけは厳しかった。 芝居や映画が好きだった母は、夜、嵩をつれて出かけることがあった。 母のまわりにはいつも何人かの男性がいて、そのことで周囲の人たちは母の悪口を言った。 だが嵩は、自分を養うために母が手に職をつけようとしていることを知っていたし、よそのお母さんよりきれいな母を自慢に思っていた。 祖母の鐵は嵩に甘く、暮らし向きは楽ではなかったが、ふたりの女性に大事にされ、嵩は世間知らずのお坊ちゃんとして育った。
学齢期を迎えた嵩は、家のすぐそばの高知市立第三小学校(後の高知市立はりまや橋小学校)に入学した。 だが、ここに通ったのは二年生の途中までだった。 母につれられて高知駅から汽車に乗り、後免町にある伯父・寛の家に行ったとき、嵩はそのままそこに置いていかれるとは思っていなかった。 奥の部屋で伯父と話していた母は、嵩にしばらくここにいるようにと言った。 おまえはからだが弱いから、伯父さんに丈夫にしてもらうのよ、水虫も治してもらいなさい、お兄ちゃんなんだから、千尋にやさしくしてね――と。 そして、帰っていく母を、千尋といっしょに見送った。 このとき嵩は、母が再婚することを知らされていなかった。 そのうち迎えに来てくれると思っていたので悲しくはなく、涙も出なかった。 よそゆきのきものを着て、白いパラソルをさした母を、きれいだと思った。
伯父の「柳瀬医院」と住宅が一緒になった建物は、当時の鉄道省(現JR)土讃線の後免駅から直線距離にして二百メートルほどのところにあり、裏手には農事試験場の畑が広がっていた。 隣は酒店で向かいが石材店、その先に製材所があった。
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