九鬼隆一という人物[昔、書いた福沢182]2019/12/26 06:55

        九鬼隆一と大臣病<小人閑居日記 2003.6.28.>

 司亮一という人の書いた『男爵(バロン)九鬼隆一 明治のドン・ジュアン たち』(神戸新聞総合出版センター)を読んだ。 九鬼隆一は、慶應義塾に一年 ほどいて文部官僚になり、福沢諭吉の家にも親しく出入りしていたが、明治1 4年の政変でこの人に裏切られた福沢が、生涯許さず蛇蝎のごとく嫌った人物 だ。 『「いき」の構造』の哲学者九鬼周造はその四男である。 周造の母、隆 一の二番目の妻、初子(を、この本は使っているが、波津(子)の表記で名高 い)は、岡倉天心との恋愛(今日の不倫)問題で知られる。

 九鬼家というのは、水軍に端を発した摂州三田(さんだ)の殿様で、九鬼隆 義という人が、その重役白洲退蔵とともに、福沢と親しかった。 だが隆一は、 殿様ではなく、三田の重臣である星崎という家から、隆義がそこから養子に来 た三田の支藩、綾部藩の首席家老九鬼隆周(ちか)の家に養子に入って、星崎 貞四郎から九鬼静人(しずと)になり、慶應義塾に入った頃から隆一を名乗り 始める。 誰にでも藩主家の出と思わせる名乗りに、この人物の計算が見え見 えだといえないか。 九鬼隆一は、大臣病患者だった。 そのために懸命に働 き、着実に立身出世して、明治初期の文部行政、とりわけ美術関係のそれに大 きな業績を残している。 しかし、大臣にはなれなかった。 立身出世の過程 で、敵を作り過ぎた。 福沢も、その門下生たちも、その敵だった。 大臣病 患者は、今でもごろごろいる。 小泉純一郎首相が、自民党内で人気がないの は、派閥順送りの大臣人事をしないからだろう。

        小間使いという手口<小人閑居日記 2003.6.29.>

 『男爵九鬼隆一』の副題が「明治のドン・ジュアンたち」なのは、まず九鬼 隆一自身が「漁色家」だったからだ。 二番目の妻、初子は、杉山波津といい、 15歳祇園の半玉だったのを、その初々しさと美貌、きらめく知性に惚れ、置 き屋にかけあって落籍(ひか)し、小間使いという名目で屋敷に置いた。 そ れは明治8(1875)年頃のことで、長女琴、長男良造が早世した後、次女 光子が生まれる直前の明治16(1883)年5月になって、つまり8年ほど して正式に結婚している。

 明治31(1898)年8月28日付万朝報の記事「麹町区三年町一番地枢 密顧問官帝国博物館長九鬼男(爵)は、いわゆる美術に熱心なるよりも、むし ろ女色に熱心にして、婦人に対してはかつてその醜美を論じたることなく、手 当たり次第に手を附け、これまで雇い女を孕ましたること数次なりしが、その 数多き内に今なお紀念として存し居るは、荏原郡大井村千四百七十六番地酒井 申太郎の二女みね(二十九)にて、同人は二十八年三月中、小間使いとして雇 い入れられたるものなり」。 司亮一さんは、森有礼のように蓄妾を弾劾する意 見は、なお先駆的なものでしかなかったという当時の風潮にふれ、「それはいい。 重く受けとめるべきは、隆一が酒井みねに手を付けていたのが、初子が精神を 病みつつあった時期とほぼ一致するという事実である」と書いているが、「それ はいい」というのは、それもよくない。

幕末佐賀藩の科学技術と政治関与[昔、書いた福沢179]2019/12/23 06:54

 福沢からは少し範囲が広がるが、幕末の佐賀藩の動向を書いたものも出して おく。

       佐賀藩のテクノプロジェクト<小人閑居日記 2003.6.5.>

 6月1日、TBSテレビで「痛快!江戸テクノ」という佐賀藩の科学技術集 団「精煉方」を扱った番組があった。 関口宏の司会で、落語研究会のプログ ラムに掌事典を書き始めた江戸学の田中優子法大教授や藩主の末裔鍋島直晶氏 が出演した。 幕末、鍋島直正(と、番組では言っていたが、直正は維新後の 名前で、斉正、閑叟で知られる。文化11(1814)-明治4(1871)) が天保元(1830)年に15歳で藩主になるや、藩校弘道館出身の少壮藩士 を抜擢して藩政改革を断行する。 領地に長崎外海を含み、長崎警備の任に当 っていたところから、長崎を利用した貿易や西洋科学技術の摂取によって、軍 備の近代化を計る。 

 鍋島直正は、蒸気船を佐賀藩の手で建造することを最終目標にした科学技術 集団「精煉方」の主任に、緒方洪庵の適塾出身の佐野常民を江戸から呼び寄せ て起用した。 佐野は、藩外の者を採用しないという伝統を藩主に直談判して 破り、語学の天才石黒寛次(丹後田辺藩)や設計に長じた科学者中村奇輔(京 都)、久留米の田中からくり儀右衛門などさまざまな専門家を集め、蘭学プラス からくり技術の佐賀藩理化学研究所とでもいうべきテクノプロジェクトを立ち 上げる。 ペリー来航まであと2年、嘉永4(1851)年のことだった。

     自前の蒸気船とアームストロング砲<小人閑居日記 2003.6.6.>

 「精煉方」の研究開発は、佐賀藩を日本で一番進んだ科学技術を持った藩に する。 幕府が伊豆韮山に造った反射炉は佐賀藩の反射炉に学んだものだし、 江戸湾のお台場築造にあたっては50門の大砲を佐賀藩に注文している。

 嘉永6(1853)年6月のペリー来航直後の7月、ロシア艦隊が長崎に来 航する。 警備に当っていた佐賀藩の、ロシア艦への検分隊に入り込んだ中村 奇輔は、そのロシア艦で日本人として初めて蒸気機関車の模型が走るのを見て 感激する。 「精煉方」は、その模型と同じものを造ろうと努力し、安政2(1 855)年8月、蒸気機関車のひな形を造ることに成功した。 それから10 年、慶應元(1865)年には、佐賀藩はついにテクノプロジェクトの目標だ った自前の蒸気船凌風丸を完成するのである。

 大砲についても、佐賀藩は(よりレベルの高いものを視野に、敵国から買う のでなく、自分たちで作ろうとして)砲身内部に螺旋条溝がついたアームスト ロング砲を製作することを試み、水車とからくりを使った強い動力によって螺 旋条溝の加工に成功した。 上野の戦争で、その佐賀藩製アームストロング砲 の放った12発が彰義隊を吹き飛ばし、官軍に勝利をもたらすことになる。

        幕末の政治変革と佐賀藩<小人閑居日記 2003.6.7.>

 このTBSの番組まで、佐賀藩の科学技術についての認識がなかったのは、 大隈重信を通して、佐賀藩を見ていたからだった。 大隈は佐賀藩の教育の画 一性が不満で、というかその枠におさまりきれず、結局は飛び出し、それがや がては早稲田の創立へつながる。

 幕末の政治変革に果した役割ということになると、佐賀藩は、薩長にくらべ て、ほとんど目立った動きをしていない。 鍋島閑叟直正が、藩内政治に強い 政治力を発揮していたために、その内治第一主義におさえられて、志士たちは 藩外で自由な活動が出来なかったからである。 それにもかかわらず、薩長土 肥とならび称せられ、大隈重信、江藤新平、副島種臣など多くの人材を新政府 に送り込み、閑叟直正自身も議定となり、蝦夷開拓使長官に任ぜられた。 こ れは、ひとえに、佐賀藩の軍事力によるものである。 閑叟の半生は佐賀藩を 日本で最強の軍備をもつ藩にしたてあげることに費やされたといってよい。 奈良本辰也編『明治維新人物事典 幕末篇』(至誠堂)は、「鍋島閑叟」の項で、 そう説明している。

堀達之助とリュードルフ事件[昔、書いた福沢177]2019/12/21 06:56

      堀達之助とリュードルフ事件<小人閑居日記 2003.5.28.>

 ちょっと調べたいことがあって、『福沢手帖』のバックナンバー(福沢諭吉協 会機関誌、昭和48(1973)年12月創刊、季刊で、今年3月116号が 出ている)をひっくり返していたら、面白い論考に出合った。 ペリーの初来 航時、中島三郎助と一緒にサスケハナ号へ行った通詞「堀達之助」に関するも のだ。 堀孝彦名古屋学院大学教授の「堀達之助とリュードルフ事件-福沢諭 吉の視座-」(平成10年9月『福沢手帖』98)だ。

 『福翁自伝』に、神奈川奉行組頭だった脇屋卯三郎が、容易ならぬ時節柄「明 君賢相が出て来て何とか始末」と親類に書いた手紙を、探偵に盗まれ、切腹さ せられたのを知り、恐くなった福沢が、翻訳方で知り得た外交情報を私的に書 き写して自宅に持っていたのを早々に焼いて処分した話がある。 堀孝彦教授 によれば、『福翁百話』六十二「國は唯前進す可きのみ」には、脇屋卯三郎の話 が、それ以前の堀達之助のリュードルフ事件の例とともに述べられているとい う。

 『福翁百話』に書かれていることには誤りもあるが、リュードルフ事件とい うのは、次のようなものだという。 安政2(1855)年5月21日、ドイ ツのプロイセン商人リュードルフがアメリカ(船と称し)のグレタ号に乗って 米国国旗を掲げて下田に来航した。 グレタ号は、安政元年11月の地震と津 波で沈没したロシア軍艦ディアナ号のロシア人(の一部だろう…馬場)を乗せ て出港したので、リュードルフは積み荷を陸に揚げ、下田に滞在して、商売を し、密輸もしたらしい。 堀達之助は、当時通詞として下田に在勤していて、 交渉にあたるうちに、次第にリュードルフと親しくなる。 リュードルフは、 実は自分はドイツ人で、イギリスやアメリカに認められた特権をドイツにも与 えるよう(日独修好問題)、幕府に進言してもらいたいと、堀達之助に働きかけ る。 堀は一存で、一私人の国交要求書など上にとりつぐまでもなく相手にで きないと断わったが、その要求書が見事な筆跡だったので手本にでもしようと 持ち帰る。 リュードルフの書いた本には、堀に時計や望遠鏡を渡して、日本 の硬貨、刀、地図(?、事実ならシーボルト事件の再現)を手に入れたとある そうだ。 堀達之助は、公文を私したとして捕えられ、安政2(1855)年 9月、五年の刑で伝馬町の獄舎に入れられる。 牢名主となって、かつてアメ リカ密航を企てた時下田で世話したことがある吉田松陰が入牢してきたのとも、 密度の高い交流をする。 安政6(1859)年10月27日吉田松陰は処刑 され、一方堀達之助は蕃書調所頭取古賀謹一郎の周旋で、その2日後出牢し、 『英和対訳袖珍辞書』編纂に専念していく。

芳賀徹さんの講演「福沢諭吉と岩倉使節団」[昔、書いた福沢175]2019/12/19 07:07

   芳賀徹さんの福沢諭吉協会30年記念講演<小人閑居日記 2003.5.22.>

 講演の話がつづくが、17日の土曜日、福沢諭吉協会の総会があって、芳賀 徹さん(京都造形芸術大学学長)の記念講演があった。 演題は「福沢諭吉と 岩倉使節団―彼らは西洋文明をどうとらえたか」。 当日司会の西川俊作さんも 紹介していたが、じつは芳賀徹さんはちょうど30年前、福沢諭吉協会が発足 した年である昭和48(1973)年11月10日に三田の塾監局の会議室で 開かれた第1回土曜セミナーで「福沢諭吉の文章」という講演をしていた。

 私は、この話を聴いている。 高橋誠一郎さん(明治17(1884)年生 れ、当時89歳)が理事長で、芳賀さんの講演後、少年時代に実際に会った福 沢諭吉とのエピソード(福沢家の書庫で黄表紙を見ていたら、声をかけられた という話だったような記憶がある)を語るものだから、新進気鋭さすがの芳賀 さんも、苦笑していたのを思い出す。

 芳賀徹さんは、これより5年前、中公新書で『大君の使節 幕末日本人の西 欧体験』を出していて、その本に魅せられていた私は、なんとしても、この話 は聴かなければと、三田の山へ出かけたのだった。 芳賀徹さんは41、2歳、 私はといえば、32歳で、そんな若い者は会場にいなかった。 『福沢諭吉年 鑑1 1974』の記録によると、参会者は62名だったという。 その年鑑 には、講演のもとになったと思われる東京大学助教授芳賀徹さんの論文「洋学 者福沢諭吉の文章」も掲載されている。

         福沢と久米邦武<小人閑居日記 2003.5.23.>

 前説が長くなったが、芳賀徹さんの講演「福沢諭吉と岩倉使節団―彼らは西 洋文明をどうとらえたか」。 福沢と、主に岩倉使節団の書記官で『特命全権大 使米欧回覧実記』をまとめた久米邦武を比較する。 資質、育ち、学問の背景 の違いなど。

 久米邦武は、佐賀藩のエリート藩士で、旧体制のエリートという存在が、明 治以後にも有効に活用された人物。 一方、4歳上の福沢は中津藩の下級士族、 エリート・コースを自分で開発して、自分でつかみ、運命を切り開いた。 す べて自分から働きかけ、当時、三回外国に行っている例は他にないのではない か。 そのたびに、立っているステージがせり上がっていき、世界が、日本を とりまく国際関係が、よく見えてくる。 そこから、日本の現状と過去の歴史 を批判し、論じ、奮起させた。 福沢は、外国で具体的なものを見て来て、そ れを象徴化して語ることが出来た知的能力の持主で、それは『西洋事情』初編 の「文明の政治」、『学問のすゝめ』五編「文明の精神―人民独立の気力」など のくだりに表われている。 その文章、まとめ方、論説の進め方、文章の勢い、 言葉一つ一つが持っている力、文体の力、観察と洞察、知的勇気。

 久米邦武の書いた『米欧回覧実記』も、近代文明導入の一大モニュメントで、 岩倉使節団は戊辰戦争よりはるかに重大な事業であり、明治近代国家建設への 強い姿勢を示している。 岩倉直属の書記官、漢学者としての資格で加わった 久米は、佐賀鍋島藩の西洋科学技術進取の環境での勉強もしており、その両方 がうまく合わさって、地理、歴史、産業、技術などについて、時間的にも余裕 があって全て現場に立ち、漢語ストックを動員した、明解な文学的リズムの文 体で記録した。 福沢と同様、文明を動かす精神にも目を向け、久米が一番共 鳴しているのはアメリカン・デモクラシーだったし、ピューリタンの強さ、プ ロテスタンティズムの倫理とその生活(態)に好印象を持った。 その点で、 岩倉使節団を即ビスマルク、モルトケのプロシャ、天皇制国家に結びつける議 論は乱暴だ。 久米には、福沢に足りない、感性による接近(漢語の効果)が あった。 それはロッキー越えやヴェネチアの恍惚の描写に表われている。

神奈川宿の台地、旧街道沿い、生麦[昔、書いた福沢174]2019/12/18 06:12

       神奈川宿の台地を歩く<小人閑居日記 2003.5.11.>

 10日は「新・横濱歴史散歩」の現地散策で「神奈川宿」周辺を歩いた。 京 浜急行で横浜から一つ品川寄りの神奈川駅で集合。 初めて降りる駅だが、生 れ育った中延方面から第二京浜国道が青木橋の所で左折して横浜駅前(東口、 昔は西口なんてなくて裏口だった)へ回り込む、その青木橋のたもと、見たこ とのある場所だった。

 青木橋を渡って山側へ、本覚寺という立派なお寺が見える権現山に続く台地 を登って行く。 これが旧東海道、広重の浮世絵にある海沿いの坂道で、つま りここから横浜駅側は海だったことになる。 「文久三年」と看板のある料亭 など当時の「台町の茶屋」の前を通って「神奈川台の関門跡」から、右に急坂 を登る。 上台町公園、かえもん公園、ここには高島嘉右衛門の屋敷があった 由、高島易断の碑、望欣台の碑、弁玉の歌碑などを見る。 高島嘉右衛門は常 陸から少年の時江戸に出て材木商となり、漸次産を成した横浜の実業家で、石 川潔さんによればご禁制の(例の金銀交換比率差利用の)金取引のかどで小伝 馬町に入牢中に牢屋にあった本で勉強して高島易断を創始、鉄道敷設にあたっ ては海中に鉄道線路用土手を只で築く一方、土手までの土地を埋め立てればも らえる契約をして、現在の高島町にその名を残す。 望欣台とは台地にある自 分の屋敷から埋め立ての進行状況を毎日眺めて嬉しがっていた所の意。 洋学 校高島学校、ガス事業などでも貢献し、福沢諭吉を高島学校へ招こうとして、 息子たちの留学費用を負担するからという条件を出し、独立自尊の人に断わら れる(『福翁自伝』に出てくる「横浜の富豪」)。

 幕末維新の風物を和歌に詠んだ弁玉という僧が住職をしていた三宝寺(今は 神奈川駅方面から見ると空中寺院となっている、一見の価値あり)の前を通っ て、生麦事件の時に怪我人がかつぎ込まれ、ヘボンが治療した本覚寺へ。 ア メリカ領事館だったが、事件当時神奈川に領事館のあったのはアメリカだけで、 ほかの国はみな横浜へ移っていたという話だった。 アメリカは最初に来て、 港から一番目立つこの寺に領事館を設けたが、山門から何から白ペンキで塗り つぶしたとか(戦後の進駐軍も、そうだった)で、激しかったという横浜空襲 をたまたま逃れた当時の山門に、寺の人が見ると白ペンキに見えるというシミ が、今に伝えられている。 その山門を出た所に、岩瀬忠震の碑があるのがう れしかった。 横浜開港の功績を、掃部(かもん)山公園に銅像が建っている 井伊掃部守直弼に帰するのは誤りで、海防掛目付岩瀬忠震の存在を忘れてはな らないからだ。

       神奈川宿本陣近辺の旧街道沿い<小人閑居日記 2003.5.12.>

 そうそう本覚寺に、塗装業組合の殉職者記念碑だかがあったが、白ペンキの 縁だそうだ。 横浜はペンキ塗りの、日本発祥の地であった。 本覚寺から神 奈川駅前に戻って、宮前商店街の旧東海道に入る。 古い地図の甚行寺に「仏 ミニストル(公使館)」とあったが、横浜市の表示板では英士卒が滞在とだけ書 いてあった。 宮前の名の由来である洲崎大神社へ。 神奈川宿の神社という ことで、かつては盛大な祭礼が行なわれ、今もほとんど店のない商店街の貧弱 さの割に、祭は賑わうという。 神社の鳥居の前が、生麦事件の話にもよく出 て来る宮ノ河岸渡船場で、ここから先は海になっていたわけだ。 河童伝説の ある瀧の川にかかる瀧之橋の手前を川沿いに左折してすぐの道を左に入ったと ころが、シモンズやヘボンのいた宗興寺で、ヘボンの碑があった。 プレート の記述は虫下し「セメン円」シモンズ由来説だった。 同寺横の神奈川の大井 戸を見て裏手に回り、イギリス領事館のあった浄瀧寺を奥に見て、橋を渡って 京浜急行線の先にフランス領事館だった浦島太郎ゆかりの慶運寺、少し戻って ふたたび旧東海道に入った成仏寺にはヘボンやブラウンが滞在していた。 こ のへんに寺の多いのはなぜかと石川潔さんに訊くと、幕府はどこでも宿場の近 くには寺を集めた(品川も)もので、攻められても墓を倒せばすぐ防御(バリ ケード)になるというような話だった。 神奈川地区センターという区の施設 の前に、かつての高札場が復元されている。 もともとは、本陣に近い瀧之橋 のたもとのあたりにあったらしい。 熊野神社、金蔵院を通って京急仲木戸の 駅から生麦まで電車に乗る。

     浅海武夫さんの生麦事件参考館など<小人閑居日記 2003.5.13.>

 生麦駅で降りて、第一京浜国道近くの生麦事件参考館へ行く。 生麦の酒屋 さんだという(現在は息子さんに譲って隠居)浅海武夫さんが、自宅前の普通 なら駐車場にするような所に自費で小さな建物を建て、蒐集した事件関係の資 料を展示公開している。 吉村昭さんが『生麦事件』のあとがきに、浅海武夫 さんは研究者が皆無だと思っていた生麦事件の地道な研究者で、この参考館で 見た当時の生麦村の家並図が、小説を書く上でたいへん役に立ったと書いてい る。 その家並図が展示してあるのも見たが、東海道の両側に並ぶ家々の住人 の名前、職業、家のグレード(上中下)、広さと座敷のあるなし(下の家には座 敷がない)まで記されていた。 吉村さんは村から神奈川奉行所に提出された 事件に関する報告書と、この家並図をくらべて、事件の発生場所を確実につか むことが出来たという。 また、浅海さんの斡旋で入手した生麦村の庄屋の日 記から、簡潔に記された事件の概要、毎日の天候その他を知り、小説を書き進 める大きな力になったそうだ。 浅海武夫さんには、講演にお出かけとかで、 残念ながらお会いできなかった。

 生麦事件の記念碑を見て、すぐそばのキリンビール「キリン横浜ビアビレッ ジ」へ行く。 きれいに整備された工場を見学して、出来たてのビールが試飲 できる施設だ。 土曜日なのでラインは稼働していなかったが、半日歩いての ビールは最高においしそう、下戸にはソフトドリンクもあった。 ともかく、 こんな機会がなければ、けして行かない場所ばかり巡ることが出来、神奈川宿 の土地勘を得た楽しい歴史散歩だった。