芳賀徹さんの講演「福沢諭吉と岩倉使節団」[昔、書いた福沢175]2019/12/19 07:07

   芳賀徹さんの福沢諭吉協会30年記念講演<小人閑居日記 2003.5.22.>

 講演の話がつづくが、17日の土曜日、福沢諭吉協会の総会があって、芳賀 徹さん(京都造形芸術大学学長)の記念講演があった。 演題は「福沢諭吉と 岩倉使節団―彼らは西洋文明をどうとらえたか」。 当日司会の西川俊作さんも 紹介していたが、じつは芳賀徹さんはちょうど30年前、福沢諭吉協会が発足 した年である昭和48(1973)年11月10日に三田の塾監局の会議室で 開かれた第1回土曜セミナーで「福沢諭吉の文章」という講演をしていた。

 私は、この話を聴いている。 高橋誠一郎さん(明治17(1884)年生 れ、当時89歳)が理事長で、芳賀さんの講演後、少年時代に実際に会った福 沢諭吉とのエピソード(福沢家の書庫で黄表紙を見ていたら、声をかけられた という話だったような記憶がある)を語るものだから、新進気鋭さすがの芳賀 さんも、苦笑していたのを思い出す。

 芳賀徹さんは、これより5年前、中公新書で『大君の使節 幕末日本人の西 欧体験』を出していて、その本に魅せられていた私は、なんとしても、この話 は聴かなければと、三田の山へ出かけたのだった。 芳賀徹さんは41、2歳、 私はといえば、32歳で、そんな若い者は会場にいなかった。 『福沢諭吉年 鑑1 1974』の記録によると、参会者は62名だったという。 その年鑑 には、講演のもとになったと思われる東京大学助教授芳賀徹さんの論文「洋学 者福沢諭吉の文章」も掲載されている。

         福沢と久米邦武<小人閑居日記 2003.5.23.>

 前説が長くなったが、芳賀徹さんの講演「福沢諭吉と岩倉使節団―彼らは西 洋文明をどうとらえたか」。 福沢と、主に岩倉使節団の書記官で『特命全権大 使米欧回覧実記』をまとめた久米邦武を比較する。 資質、育ち、学問の背景 の違いなど。

 久米邦武は、佐賀藩のエリート藩士で、旧体制のエリートという存在が、明 治以後にも有効に活用された人物。 一方、4歳上の福沢は中津藩の下級士族、 エリート・コースを自分で開発して、自分でつかみ、運命を切り開いた。 す べて自分から働きかけ、当時、三回外国に行っている例は他にないのではない か。 そのたびに、立っているステージがせり上がっていき、世界が、日本を とりまく国際関係が、よく見えてくる。 そこから、日本の現状と過去の歴史 を批判し、論じ、奮起させた。 福沢は、外国で具体的なものを見て来て、そ れを象徴化して語ることが出来た知的能力の持主で、それは『西洋事情』初編 の「文明の政治」、『学問のすゝめ』五編「文明の精神―人民独立の気力」など のくだりに表われている。 その文章、まとめ方、論説の進め方、文章の勢い、 言葉一つ一つが持っている力、文体の力、観察と洞察、知的勇気。

 久米邦武の書いた『米欧回覧実記』も、近代文明導入の一大モニュメントで、 岩倉使節団は戊辰戦争よりはるかに重大な事業であり、明治近代国家建設への 強い姿勢を示している。 岩倉直属の書記官、漢学者としての資格で加わった 久米は、佐賀鍋島藩の西洋科学技術進取の環境での勉強もしており、その両方 がうまく合わさって、地理、歴史、産業、技術などについて、時間的にも余裕 があって全て現場に立ち、漢語ストックを動員した、明解な文学的リズムの文 体で記録した。 福沢と同様、文明を動かす精神にも目を向け、久米が一番共 鳴しているのはアメリカン・デモクラシーだったし、ピューリタンの強さ、プ ロテスタンティズムの倫理とその生活(態)に好印象を持った。 その点で、 岩倉使節団を即ビスマルク、モルトケのプロシャ、天皇制国家に結びつける議 論は乱暴だ。 久米には、福沢に足りない、感性による接近(漢語の効果)が あった。 それはロッキー越えやヴェネチアの恍惚の描写に表われている。