豊洲に建設中の未来都市を見学2006/07/06 07:13

 4日、IHI石川島播磨重工業にいる友人の好意で、江東区豊洲で進んでいる 再開発の現状を見学してきた。 豊洲は、IHIの前身である東京石川島造船所 が、1939(昭和14)年に東京第一工場と呼ばれた造船所を開設して以来、IHI が研究・設計・製造の拠点としてきた場所だ。 石川島造船所の歴史は、さら に1853(嘉永6)年のペリー来航時までさかのぼり、石川島(現在の中央区佃 島)に、徳川幕府が創設したのに始まり、1876(明治9)年日本初の民営造船 所になったのだそうだ。

それが東京都の晴海通り延伸計画に伴い、新しい橋が完成するとドックに大 型船が来航できなくなることなどから、2002年にIHI東京第一工場は約150 年の長い歴史の幕を閉じ、その跡地(町の名を「アーバンドック」と呼ぶ)を 中心とした再開発事業が進んでいる。 その先陣を切って、IHIは25階建の新 本社ビルを建て、この4月に大手町から本社を移した。

東京メトロ有楽町線の豊洲駅を出ると、正面にIHIの本社ビル、その左奥に 日本ユニシス本社、ふりかえるとNTTデータのビルが二本立っている。  IHI 本社の25階にあるIHI豊洲クラブからの眺望が素晴しい。 どこもかしこも 工事中、今まさに未来都市の再開発が進んでいるのだ。 海の方は、お台場を 遠く、裏から見る感じになる。 築地市場が平成24年に移転してくるという 場所も見えた。 10月オープンの都心最大の大型商業施設「アーバンドック ら らぽーと豊洲」には、東急ハンズ、紀伊国屋書店、12スクリーンのユナイテッ ドシネマ、(平木)浮世絵美術館の他、200の専門店。 IHIと三井不動産が共 同でやっている52階建1481戸のマンション「アーバンドック パークシティ 豊洲」は、平成20年3月完成という。 有楽町から、歩きも入れて20分弱の 交通至便、70平米5,6千万円、180平米2億円とかの、よく出来たショールー ムを冷やかしてきた。 もうかなりの部屋が、抽選で売却済と聞いた。

入谷の朝顔市、子規の朝顔の句2006/07/07 07:45

 未来都市につづいて、6日、石川島が火付盗賊改長谷川平蔵の建議でつくら れた人足寄場だった頃の、江戸へ出かけた(余談だが、Microsoft IME 2003 は「にんそく」も「よせば」も変換しない)。 年中行事の入谷の朝顔市である。 

「江戸に出かけた」というのは、こちとらの気分だけのことであって、朝顔 を買うとくれるパンフレットをよく読むと、入谷が朝顔で有名になったのは、 明治になってからのことだそうだ。 土質が朝顔造りに適していたのか、十数 軒の植木屋が、それぞれ五、六百坪の土地を持って、軒を連ねて朝顔造りを始 めたのだという。 年々大輪朝顔のほか、変り種を作り、珍花を咲かせて、そ れを陳列したのが評判になり、朝早くから見物人が集まって、東都年中行事の 一つに数えられるようになった。 全盛期は明治の24,5年頃、入谷の発展で しだいに植木屋がなくなり、大正2年に最後の植松の廃業で、入谷の朝顔はい ったん姿を消した。 現在の市は、昭和23年に復活したものだそうだ。

 ご近所に住んでいた正岡子規に、朝顔(季は秋)の句はあるかと、『季題別 子 規俳句集』を見る。 あるは、あるは、153句もあった。

 入谷から出る朝顔の車哉

 蕣(あさがほ)の入谷豆腐の根岸哉

 朝顔や入谷あたりの只の家

垣の外に朝顔咲くや上根岸

朝顔の垣や上野の山かつら

朝顔に吉原の夢はさめにけり

朝顔や新聞くばる鈴の音

朝顔の戸に掛けて去る牛の乳

咲て見れば團十郎でなかりけり

 朝顔や我に寫生の心あり

P・G・ウッドハウスを知っていますか2006/07/08 07:09

 3月、入院中の友人を仲間と見舞いに行った時、三冊の本を持っていった。  その一冊にP・G・ウッドハウス著、岩永正勝・小山太一編訳『エムズワース 卿の受難録』(文藝春秋)を選んだ。 その少し前のNHK・BS「週刊ブックレ ビュー」で、「春風駘蕩。世界中のひとびとの心を百年にわたって明るくしてき た巨匠ウッドハウス。選集第二巻の主役は田舎のお屋敷に暮らす、のんびり屋 のエムズワース伯爵。絶えず襲い来る災難に困り果てる老伯爵の日々を描く短 篇全作品を収録。」と、推薦していたからだ。

 それが富山太佳夫さんの岩波新書『笑う大英帝国――文化としてのユーモア』 の第3章「ご主人様はアホですから―執事の伝統」を読んでいたら、「二十世 紀のイギリスの最大の国民的ユーモア作家P・G・ウッドハウス」と、あるで はないか。 恥ずかしながら、「週刊ブックレビュー」で聞くまで、その名を知 らなかった。 イギリスに追いつけ、追い越せでやってきた日本だが、どこか でイギリスのその後を知ることまで、忘れてしまったのかもしれない。 と、 自分の無知を棚に上げて、日本のせいにしてしまったのだった。

ここがせこいのだが『エムズワース卿の受難録』を、自分では買わずに、図 書館で借りてきた。 すると、なんと編集担当・永嶋俊一郎、発行者・庄野音 比古とあるではないか。 永嶋俊一郎さんは、ご両親がともに大学のクラブで ご一緒だったし、庄野音比古さんは10年下で卒業30年の連合三田会大会の時、 一緒に広報の仕事をした、一応等々力短信の読者、というか送り先である。 嬉 しくなって、世界的に有名だという、ユーモア巨匠の作品を読んでいるところ だ。

夏の英国、よく晴れた朝2006/07/09 08:49

 イギリスの田舎のいたるところに、エムズワース伯爵のブランディングズ城 のように、領主の住む城館(キャッスル)、邸宅(ホール)、お屋敷(マナーハ ウス)があったという。 年中さぞやうっとうしい天気が続くのであろう、高 緯度のイギリスでは、夏という季節は貴重である。 とりわけ、夏の朝。

 エムズワース伯爵は、ベッドから出て、窓の外を覗いた。 すばらしい朝だ。  夜中に雨が降ったせいで、クリーニングから戻って来たばかりのような世界が 陽光のもとで輝いていた。 なめらかな緑の芝生に杉の木が長い影を落として いる。 ミヤマガラスが優しく鳴き、ツグミは流れるように歌い、空気は夏の ざわめきに満ちている。 昆虫の世界では、特大のユスリカが舞い飛んでいた。

 夏のさなか、そのブランディングズ城の庭園は美の絶頂にあった。 アキレ ア、ビグノーニア・ラディカンス、カンパニュラ、ジギタリス、ユーフォービ ア、ファンキア、ジプソフィア、ヘリアンサス、アイリス、リアトリス、モナ ルダ、フロックス・ドラモンディ、サルビア、サリクトラム、ヴィンカ、そし てユッカが輝き溢れていた。

 だれもが、お天気好きで、花好きのエムズワース伯爵が、顔中に笑みをたた えて浮き浮きと歩き回っていると、思うだろう。 そうは問屋が卸さないとこ ろが、『受難録』の『受難録』たる所以なのである。

英国人のアメリカ観2006/07/10 07:15

 P・G・ウッドハウス(1881-1975)の『エムズワース卿の受難録』に表われ るイギリス人のアメリカ観が興味深い。 収録されている作品は、その初出が 1935年~37年、1950年、1966年だが、古いものには後日手直ししたものも ある。 ちょっと画一的なアメリカのようにも思えるが、それがイギリス人一 般のものなのだろう。

 長年にわたってエムズワース伯爵の頭痛のタネだった次男坊フレデリック・ スリープウッドが、アメリカはロング・アイランド・シティのドナルドソンズ・ ドッグビスケットの社長令嬢と結婚する。 「かつての無気力なロンドンの芋 虫はあくなき挑戦者、点火した導火線」、犬用ビスケットの優秀なセールスマン へと変身する。 そして、イギリスにその販路を拡大すべく、売り込みのため に帰国したりするのだ。

○「含みのある言い回しというやつは、余裕のある文明の中でしか花開かな い。アメリカのような鉄火場では「すぐ言え、すぐやれ」といった下品さが染 みこんでしまうのだ。」(88頁)

 ○「大英帝国は今でも一流強国であり、繁栄し、諸国の尊敬を集めていると 世の人は言う。もし本当なら、それは大いに慶賀すべきであろう。しかし、将 来はどうか?」(109頁・初出1935年)

 ○「アメリカで自分の食い扶持を稼いでいる今、この次男坊は、ロンドンで 不始末ばかりしでかし借金に追いまくられていたころに比べれば大改善された に違いなかった。が、ただ一つ引っかかる点がある。長年こちらが息子をぐう たらのろくでなしと見なしていたのに、今では息子がこちらをそう思っている のではないかという考えが頭を離れないのだ。いまや働き者となったフレディ は、ロード・エムズワースのように土を耕すことも糸を紡ぐこともしない男を 軽蔑の目で眺めていた。」(261-262頁)