見え透いた「狙い」を排す2006/10/17 07:37

 句会では「湧水で洗ひ上げたる蕪を買ふ」に3票。 お鷹の道の途中、国分 寺手前の真姿の池のところの、地主さんだろう本多さん(何軒かある)という 大きな農家が取れたての野菜を直売していたのだ。 それぞれ百円の蕪と小松 菜を買う。 おかげで、3票獲得した。 英先生の選にも入り「洗ひ上げたる」 の、農家が少ない収穫を丁寧に扱っている感じがいい由。 あとで、買った現 物を見た先生、「句の蕪の方がいい」と、おっしゃる。 「蕪」は冬の季題。 ほ かに「盛り過ぐ萩のトンネル風通る」を「盛り過ぐる萩のトンネル風通る」と 添削して、選んでいただく。 上五の字余りは、あまり気にする必要はないそ うだ。 むしろ叙述の「続き」加減と、「切れ」を考えた方がよいという。 ほ かに「東屋で句ひねり食はれ秋の蚊に」「殿ヶ谷戸秋の七草みな素朴」を英雄子 (ひろし)さんに選んでもらった。 自分で選句したのと同じ数を選ばれ、ま ずまずの成績になったのは、ひとえに蕪を買ったおかげ。

 英先生は選評の中で、初心の者の失敗の例に、誰にも選句されなかったので 誰の句か分からないがと前置きして、「午後一時酔ひ兆したる酔芙蓉」を挙げた。  言葉の「理屈」に陥っているというのだ。 狙いや工夫が、見え透いている。  こういう句は、江戸中期から後期にかけては珍重されたが、のちに「月並」と 排されるようになった。 「採らぬ親切」ということがある。 あとで、選ば れなかった句を見直して、反省するように、と。 初心の人は、吟行でつくっ た句の内、つい狙いや工夫のある句を出して、失敗しがちだ。 むしろ出さな かった句のほうが、素直でいいことがある(きのう書いた私の10句は、どう だろうか)。 そう言われてみれば以前、俳句は「努力しちゃあいけない」、あ ざとくない句を、素直に、愚直につくっていくように、と教わった。

 当日の本井英主宰の御句。

  水音に秋海棠の花明かり

  茶の花の咲きこぞりたる閑かさよ

  秋冷の芝生に日射もどるかな

  国分寺跡の基壇の草紅葉

  湧いてすぐ野川となれり水の秋

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック