軍部は日米の国力差を把握2007/09/02 07:06

 岩間敏さんの『石油で読み解く「完敗の太平洋戦争」』の中に、今まで知らな かったことや、通説とは違うことが、いくつかあった。  (1)太平洋戦争前、軍部は日米の国力差を把握していた。 昭和15(1940)年 初頭から研究を開始した陸軍が外部から専門家を集めてつくった「戦争経済研 究班」(のちに「陸軍省主計課別班」)。 昭和16(1941)年4月、中央官庁、陸 海軍、民間から研究員を集めた「総力戦研究所」。 昭和16年7月にまとまっ た前者の「英米合作経済抗戦力調査」を、杉山元(はじめ)参謀総長は「調査は 完璧であるが内容は国策に反する。報告書は焼却」と指示した。

 (2)実は、満州と樺太には膨大な石油があった。 昭和初年から日本は、旧満 州で石油の探鉱作業を実施していた。 戦前の日本国内の原油生産量の最大は、 昭和12(1937)年の39万3千キロリットル(日産7千バレル)、石油消費量は同 年度の475万キロリットル(日量8万2千バレル)だった。 戦後の昭和44(1969) 年、戦前日本が集中的に探鉱を行った地域から山一つ越えた遼寧省の遼河油田 が発見された。 生産量で中国第三の油田となるこの油田の原油生産量は1995 年のピークで日産31万バレルもあった。 戦前の探鉱当時、最新技術である 米国の地震探鉱機器を「日本鉱業」が導入していたが、満州の探鉱では「日本 石油」が技術支援していたので、この技術は使用されなかった。 また満州で の石油探鉱は日本の国家機密だったため、最新技術を持つ米国の探鉱請負業者 を投入することを避けた。  大正期、日本は樺太(現サハリン)に「北樺太石油」の権益を保有していた。  昭和8(1933)年度のピーク生産量で22万4千キロリットルもあったこの海外権 益を、ソ連との度重なる紛争(張鼓峰の国境紛争、ノモンハン事件など)によっ て、生産量減、輸入減、禁輸と進んで、失っていく。

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