二代智忠親王と加賀前田家 ― 2009/01/11 06:37
寛永6(1629)年4月智仁親王が病気で亡くなり、その時11歳だった智忠 親王が結婚する寛永19(1642)年まで、十年以上桂亭(桂離宮)は荒れ果て たままになっていたらしい。 八条宮二代智忠親王の花嫁は、加賀大守前田利 常の息女富姫(ふうひめ)だった。 この姻戚関係が、結婚を期に始まる桂離 宮のその後の増築と整備に大きく関係してくる。 前田利常は百万石の外様大 名という、徳川幕府からは警戒の対象だったけれど、その夫人子々姫は女院の 姉だったから、富姫は女院の姪であり、徳川縁故の東福門院(中宮和子、二代 将軍秀忠と小督の女)養女の資格での嫁入りであった。
前田利常の弟前田利政の女(富姫からは従姉妹)が、京都の富商角倉素庵(玄 紀)の後妻になっていた。 その家は、前田家の扶持を受けていた本阿弥光悦 とも、またその親族の俵屋宗達ともゆかりの深い家柄であった。 王朝文化の 伝統の中に、革新的なデザインも取り入れているのは、そうした人脈の影響が あるのだろう。 庭園の中心にある松琴亭では、一の間に床の内の壁紙とそれ につらなる襖に、白と縹(はなだ、テレビ番組では白と青と言って、飛石にま で及んでいるのを見せていた)の加賀奉書を貼ったのは、加賀から迎える新夫 人を考えてのことだろうと、林屋辰三郎さんは言う。 中書院の座敷絵は、狩 野守信(探幽)、尚信、安信の三兄弟が、山水・人物・花鳥を描いた。 桂の新 しい工事は、幕府の協力によるものだそうだが、加賀前田家の財政的なバック アップと、前田家に連なる人脈あってのことだったことは、容易に想像できる。
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