久保市三郎(旧姓小澤)という人物 ― 2009/03/26 07:07
「未来をひらく 福澤諭吉展」を見て、「きりひらく実業」の「もう一つの福澤 山脈」が好企画だと書いたが、鈴木安三さんがお調べになっている久保市三郎 (旧姓小澤)という人物も、まさしく「もう一つの福澤山脈」なのであった。 鈴木さんが送って下さった『久保市三郎翁傳記』(昭和32年2月25日、同書 刊行会刊)の年譜コピーによると、小澤市三郎は慶應3(1867)年、埼玉県北 埼玉郡三田ヶ谷村大字彌勒の生れ、羽生中学校、明治義塾などを経て、明治17 (1884)年10月慶應義塾入学、明治20年4月全科卒業、9月神奈川県高座郡 耕余義塾教師に就職。 明治23(1890)年1月、耕余義塾を退職し、慶應義 塾大学部理財科に入り直す。
明治26年1月、慶應義塾大学部理財科を卒業(第一回・答辞を読む)して、 一旦は日本銀行に入るが、わずかしか勤めずに、福沢の推挽で、栃木県芳賀郡 中村寺内の久保家の養子となり、以後、栃木県の産業経済金融教育の各方面の 開拓啓蒙指導に活躍した。 「昭和28(1953)年1月10日、福沢先生誕生記 念講演を三田講堂(?)にて行う」という記述もある。 昭和31(1956)年 満88歳で没。 伝記刊行会代表者の「凡例」という序に、「もし、中央に留まっていたら、藤 山雷太、池田成彬両氏等と共に、堂々その手腕を発揮し得たであろう」とある。 久保市三郎は、福沢の唱えた「ミッズルカラッス」、地域の近代を担う開明派リ ーダーとなり、生涯を貫いたのだ。
鈴木さんに訊かれて、『慶應義塾史事典』の索引を調べたのだが、「久保市三 郎」も「小澤市三郎」も、なかった。 当然、福沢との手紙のやりとりがあっ ただろうと、『福澤諭吉書簡集』や、丸山信編『福沢諭吉とその門下書誌』にも あたったが、見当らない。 辛うじて、『福澤諭吉全集』の索引に、「小澤市三 郎」があり、19巻353頁の該当個所は、福沢の明治18年6月6日からの「土 曜会名簿」で、6月26日の項に「埼玉県北埼玉郡彌勒村 小澤市三郎」とあ った。 「土曜会名簿」というのは、解説に「在塾の学生を毎土曜日順々に自 宅に招いて談話したときの住所氏名の記録であらう」とある。
栃木県の久保家の方から調べると、福沢の書簡その他の資料が出てくる可能 性があり、「もう一つの福澤山脈」が明確な姿を現すかもしれない。
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