石田新太郎と成人教育協会 ― 2009/04/02 07:11
(4)石田新太郎と成人教育協会。 石田新太郎(明治3(1870)年~昭和2 (1927)年)は、福島県三春の出身で1893(明治26)年慶應義塾大学部文学 科第二回の卒業。 卒業後教育学を学び、1895(明治28)年に「三春生」の ペンネームでヘルバルト教育学批判を発表し、谷本富(とめり)との間で論争 になった。 その後、陸軍士官学校や幼年学校で教鞭をとり、明治34年台湾 国語学校教頭、1908(明治41)年に慶應義塾幹事に就任した。 幹事職は塾 長を補佐する役で、途中の三年を除き、1922(大正11)年鎌田栄吉塾長が文部 大臣に就任し、幹事職が廃止されるまで務めた(この職にあったのは石田だけ)。 その後は義塾理事となって、在職中に没する。
『女子大学講義』(1909年)、『天化(てんげ)人育』(1912年)、『環境と教 育』(1924年)などの著書がある。 石田は、ヘルバルト教育学が対象を学校 教育に限定して科学的教育を展開する、その限定を批判し、自然、社会、家庭、 寺院などの環境の教育力に注目した。 1920(大正9)年、『義塾に関する卑見』 で校外教育部の設置を提唱したが、実現しなかった。 1924(大正13)年、 個人で成人教育協会を設立し、チュートリアルクラス(輔導学級)による成人 教育講座を実施、『成人』を刊行した。 石田没後の成人教育協会は板倉卓造、 小泉信三らの委員会で運営され、慶應との関係性は強かった。
コメント
_ wild-yellow ― 2009/09/05 21:34
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。
※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。
曾爺ちゃんは、色々やってた人なんですね。