水上瀧太郎と「三田文学」2009/12/25 07:23

 永井荷風が去ったために「三田文学」は次第に衰退してゆく。 沢木梢(四 方吉)を主幹に、南部修太郎、小島政二郎、井汲清治、三宅周太郎、宇野四郎、 水木京太など「新三田派」と呼ばれる作家達を生んだけれど。 沢木梢が病気 になり、義塾当局も消極的で、大正14(1925)年3月で休刊となる。 水上 瀧太郎は、学校の力を借りずに、自分たちの力で復興させねばならぬ、と提言 する。 経営者らしく事実を踏まえて諄々と説いた。 大正14年12月、麹町 の泉鏡花が「元禄屋敷」と名付けた水上邸で「水曜会」が始まり、復刊を協議 し、大正15(1926)年4月号から復刊を実現する(発売所は春陽堂)。 編集 委員は、水上瀧太郎、久保田万太郎、井汲清治、南部修太郎、西脇順三郎、小 島政二郎、水木京太、石井誠、横山重の9名、編集担当は勝本清一郎だった。  その間の事情は、水上の随筆「『三田文学』の復活」(『貝殻追放』)にある。

 昭和8(1933)年2月明治生命取締役となり、12月号に「編集委員隠居の辞」 を書く。 水上は、久保田万太郎命名するところの「三田文学」の「精神的主 幹」であった。 昭和10年常務、昭和14年には大阪毎日新聞社取締役も兼ね る。 昭和15(1940)年3月、会社講堂での女子社員の会で挨拶をしている 時に倒れ、満52歳で亡くなる。

 多忙な経営者にして作家、「二足の草鞋」が命を縮めたといわれるけれど、坂 上弘さんは、文学者が経営者になったのであって、そこに矛盾はない、と言う。  倫理性が高く、趣味(芝居、相撲)の深い人だった。 一生の目標は、自分で 書いて、新人を育てることにあったのではないか。 坂上さんが若い時分、そ こで育てられた戦後の「三田文学」には、やさしい暖かい視線があって、後か ら光が流れている感じがした。 それは水上さんがつくったもので、一度お目 にかかりたかった人だ、と。

 この坂上弘さんの「二足の草鞋」論は、ご自身の感慨でもあろう、と思った。

再考・横浜中華街の方位<等々力短信 第1006号 2009.12.25.>2009/12/25 07:25

  今年は横浜開港150年だった。 横浜中華街は迷いやすい。 経験がおあり だろう。 まわりとくらべ、道が斜めになっているので、駅への帰り道が分からなくなる。 17日放送の「ブラタモリ」横浜(NHK総合)で、なぜ中華街 の区域だけが方位が違っているのかをやっていた。 地図を見ると一目で分か るのだが、海岸線に平行な海岸通りを基準に、碁盤目に区画されている横浜の 市街地の中で、中華街だけが東西南北に忠実になっている。 案内人の嶋田昌 子さん(横浜シティガイド協会)の話は、こうだった。 横に長い浜(砂洲) にあった小漁村・横浜村の、内側の海を埋め立てて「横浜新田」が作られた。  内側の南北方向の海岸線に平行に土地を造成したので、この地域だけが現在の 方位になった。 開港で居留地を作った際、その中に「横浜新田」も入った。

 前にもこの問題を考えたことがあった。 横浜「中華街」の方角<小人閑居 日記 2006.7.26.>である。 「横浜新田」説の根拠として(内側の海岸線の ことは知らなかった)、2006年3月完成した中国の航海安全の神様、横浜媽祖(ま そ)廟の工事で地下を掘ったら、関東大震災で瓦礫となったレンガと、水田の表 面を示す水が出てきた、という話を書いた。 それに加えて、清国人居留区が 風水の関係で、この方位になったという説も紹介した。 その時は埋め立ての 時期がわからず、私は風水説のほうが魅力的だと思った。 今夏、中村實さん に頂いた『わかるヨコハマ』(神奈川新聞社)を見たら、「横浜新田」の完成は、 開港よりずっと前の文化年間(1804~18)だった。 風水説は「風水思想にも とづいて中国人が造成した」という点では否定されたことになる。

 横浜開港資料館の伊藤泉美さんの調査研究(「中華街斜め考」『開港のひろば』 100号、2008年4月発行、他)による斜めの理由。(1)開港当時の地図で、現 在の元町と中華街の間の「堀川」に向かって細い水路があり、この水路を境に、 海側の土地と「横浜新田」とは高低差があり、その隔たりが、このエリアと周 囲とを分断していた。(地形的要因) (2)ここに住んでいた横浜村村民は、 土地収用の立退き一時金と毎年の保証金を得たが、査定基準となる土地の区画、 田畑の形を残しておく必要があった。 (3)「横浜新田」を居留地にした後、 すぐ中国人がここに入っているが、新天地で拠点を探す時、このエリアが偶然、 彼らの風水思想に合っていたので、選んだのだろう。