検証・野坂参三は同志を売ったのか?2010/01/23 07:01

 『慶應義塾史辞典』「社中の人びと」で、野坂参三と野呂栄太郎が見開きのペ ージに出ている。 「野坂参三」の項、編集委員会執筆の本文から、「(昭和) 6(1931)年3月(日本共産党)中央委員会の決定でソ連に夫妻で亡命、「32 年テーゼ」作成に参加した。コミンテルンの執行委員となり、11(1936)年2 月山本懸蔵とともに変名の連名(野坂が岡野、山本が田中…馬場註)で「日本 の共産主義者への手紙」を発表、人民戦線運動の実行を呼びかけた。」「平成4 (1992)年、ソ連時代の秘密文書が公開され、コミンテルン当時の同志(山本 懸蔵ほか)密告が明らかになり、名誉議長を解任され除名された。野坂はこれ に弁明せず、真相は不明である。5(1993)年11月14日没、享年101。」 「文 献」として、和田春樹さんの『歴史としての野坂参三』平凡社、1996年。

 和田春樹さんの講演に戻る。 レーニンは「革命家が55歳で生きているの は悲劇だ」と言った。 野坂参三は長生きをしたのが不幸だったかもしれない。  日本共産党70年の1992(平成4)年、党歴70年の野坂の100歳の祝いが椿 山荘であった。 その前年、ソ連が崩壊し、その文書が公開され、現代史の見 直しの動きが出た。 1992年9月『週刊文春』に加藤昭・小林峻一「野坂参三・ 同志を売った手紙」の連載が始まり、野坂は30年代からソ連のスパイだと主 張した。 9月21日名誉議長解任の発表、12月27日除名決議となる。 以来、 野坂参三はまったく評価されない人になってしまった。

 和田春樹さんは、週刊誌に全面的な批判記事が出ると、その人が社会的に葬 られることがあり、そうしたポピュリズムが、日本の政治をゆがめていること は、歴史学者として黙視できない、と言う。 1994年3月~5月、後に本にな る「歴史としての野坂参三」を『思想』に連載、2001年には資料集『ソ連共産 党、コミンテルンと日本 1917-1941』を出した。 後者はモスクワの文書館と 契約して金を払った資料で、そこに収録した四つの新資料によって(具体的に 説明した)、野坂が批判攻撃を受けたようなことには当たらないことが分かると いう。 和田さんは野坂を擁護し、黙ってはおれない感じだ、と語った。