『ルノワール~伝統と革新』展2010/02/01 07:10

 実は六本木に行った第一の目的は、国立新美術館の『ルノワール~伝統と革 新』展だった。 国内外の主要コレクションから、80点もの作品が集められて いる。 「ルノワールへの旅」「身体表現」「花と装飾画」「ファッションとロコ コの伝統」の四章に分かれている。

 「身体表現」とは何かといえば、裸婦である。 ルノワールは、太目の女性 が好きだったのだろう。 豊かで、大らかで、輝くばかり、圧倒的である。 岩 の上に座り、椅子に座り、水浴し、横たわり、帽子をかぶり、ヴェールをまと う。

 今回まとめて見て、ルノワールの何が一番良いかといえば、やはり「愛らし さ」「可愛らしさ」だと思った。 看板の「アンリオ夫人」(ワシントン・ナシ ョナル・ギャラリー)と「団扇を持つ若い女」(クラーク美術館)はもちろん、 「アルジェリアの娘」(ボストン美術館)、三男「クロード・ルノワールの肖像」 (川村記念美術館)、「麦わら帽子の少女」(呉市美術館)、「テレーズ・ベラール」 (クラーク美術館)などなど。 画家自身の優しさ、安定した気分が、描く対 象をも包み込んでいるのを感じる。 オクターヴ・ミルボーという小説家が画 集の序文に「ルノワールの人生と作品は幸福というものを教えてくれる」と書 いたそうだが、まさにその通りだ。

 展覧会の副題「伝統と革新」の「革新」は、ルノワールが肖像画家としての 成功に甘んずることなく、絶えず模索を続けたことを指すという。 「花と装 飾画」の章には、静物画、装飾画が並んでいる。 このことを特にいうのと、 光学調査による技法の解明の話は、よく分からなかった。 ルノワールは、幸 福を感ずれば、それだけでよいような気がした。

ルノワールの土地勘2010/02/02 06:40

 『ルノワール~伝統と革新』展の「ルノワールへの旅」に出て来る地名の話 を少し…。 ピェール=オーギュスト・ルノワールは1841年に(私より百年前) フランス中西部の磁器産業で栄えた街、“リモージュ”の仕立て職人の父、お針 子だった母の子として生まれた。 13歳で陶器の絵付け職人の徒弟となり、強 い向学心と優れた才能から、20歳の時“パリ”で画家シャルル・グレールの画 塾に入門し、モネやシスレーやバジールらの仲間を得て、1874年の第1回印象 派展に「桟敷席」などを出品する。

 「ブージヴァルのダンス」(ボストン美術館)は、今回の展覧会で目玉の一つ になっている。 “ブージヴァル”はパリ西郊外、セーヌ河上流の行楽地。 近 くには「シャトゥーのセーヌ河」(ボストン美術館)に描かれた行楽地“シャト ゥー島”もある。 佐々木三雄・綾子ほか著『パリ オルセ美術館と印象派の旅』 (新潮社・とんぼの本)によると、シャルル・ドゴール・エトワール駅からサ ン・ジェルマン・アン・レイ行の郊外急行電車で15分のルイス・マルメゾン 駅で降り、セーヌ河へ向って7分ほど歩くと“シャトゥー橋”、橋の中ほどか ら下りると“シャトゥー島”だそうだ。 そこから2キロほど下流に“ブージ ヴァル”市がある。

 「エッソワ付近の風景」(バーゼル美術館)、「エッソワの風景、早朝」(ポー ラ美術館)の“エッソワ”は、シャンパーニュ地方にある妻アリーヌの生地で ある。 「エスタックのオリーブ畑」(丸紅株式会社)の“エスタック(レスタ ック)”は、セザンヌのいたところ。 「カーニュの風景」(ポーラ美術館)の “カーニュ”は、病気の治療を兼ねて冬を過した南仏の街だ。 “カーニュ” で、三岸節子のことを思い出した。 三岸節子が、1954(昭和29)年、49歳で 初めて渡仏した時、体感した地中海の光によって、日本人が油絵を描く困難さ を改めて自覚したのも、1968(昭和43)年に63歳で再渡仏、風景画に挑戦する ために居を構えたのも、“カーニュ”だった。

『インビクタス 負けざる者たち』を観て2010/02/03 06:46

 ネルソン・マンデラ(1918~)、南アフリカ共和国の反アパルトヘイト運動 の指導者。 27年間のロブン島での獄中生活ののち、1990年デクラーク大統 領率いる政権によって釈放。 94年、初の全人種による選挙で、初の黒人大統 領となった。 95年、その南アフリカで開催されたラグビーのワールドカップ で、前評判が最悪だった南ア代表チームは初出場で快進撃をつづけ、初優勝を 果たした。 『インビクタス 負けざる者たち』は、クリント・イーストウッド 監督が、その実話を映画にしたもの。 マンデラ(モーガン・フリーマン)の 「インビクタス(征服されない)」「私が我が運命の支配者、我が魂の指揮官」 という不屈の精神、「恨みや復讐からは何も生まれない」“One country, One team”という寛容の信念は、南ア代表チーム(黒人はたった一人だけ)のキャ プテン・ピナール(マット・デイモン)に伝わり、奇跡が起きる。 人種の壁 を越え、南アフリカ共和国は一つの国にまとまるのだ。 感動的な、清々しい 映画だった。

 映画を観ながら、クリント・イーストウッドの次回作が、その後ろに映って いるのを感じた。 2011年、グァンタナモの収容所を出獄したヨハネ・リョウ マ・フセインが、国連で演説、そのマハトマ・ガンジーとマザー・テレサを合 わせたような人格、アメリカに恨みを持たない和解と、諦めなければ“One world, One government”が実現可能だと説いたのが、世界中の感動を呼ぶ。 IT技術を駆使した全地球民投票の結果、新国連たる世界連邦事務総長となり、 拒否権のある常任理事国を廃止、戦争のない平和で平等な世界が実現する。 オ バマはアメリカ支部長、プーチンはロシア支部長、胡錦涛は中国支部長、鳩山 は日本支部長となった。 そうして世界が栄えた、めでたし、めでたし。

枇杷の会「増上寺~麻布十番」吟行2010/02/04 06:32

万延元年遣米使節記念碑、バックは増上寺・三解脱門

 1月30日(土)、枇杷の会の「増上寺~麻布十番」吟行だった。 奥沢から 三田線の御成門まで行き、港区役所の隣、共立薬科大学を合併して慶應の薬学 部になったキャンパスを見に行った。 ビルだった。 以前見学したことがあ り、集合場所の増上寺・三解脱門の前、日比谷通りを越えた所にある「万延元 年遣米使節記念碑」と「ペルリ提督の首像」を下見して、12時20分の集合後、 皆様を案内した。 節分までまだ四日あるが、春のような暖かい日になった。  主宰以下7名、参加者の少ないのが残念だ。 2時まで、増上寺内外を吟行、 落語「芝浜」に出てくる大梵鐘、和宮ゆかりの茶室・貞恭庵、こじんまり改葬 された徳川家霊廟(寛永寺と同数の将軍6人、和宮ほか)、増上寺墓地などで、 句を詠む。 2時に最初の三門で集まり、麻布十番まで歩き、善福寺の福沢諭 吉の墓をお参りする。 2月3日の命日が近く、塾生か受験生か、お参りして いる人もいた。 麻布十番の商店街を歩いて奥、六本木寄りの総本家 更科堀井 で句会と、句会と新年会をした。 私の出したのは、次の七句。

  春近しここが慶應薬学部

  三門に葵の御紋もう節分

  早梅や木更津にまで響く鐘

  和宮ゆかりの茶室寒椿

  囀やよく日の当る墓地の中

  雪池忌にあと四日なる善福寺

  冬うららマンションアニメの城のやう

「増上寺~麻布十番」句会の結果2010/02/05 06:46

ペルリ提督の首像

 「増上寺~麻布十番」吟行句会の結果だが、互選では二票しか入らなかった ものの、本井英主宰が五句も選んでくれて一転、首をかしげながらも、ご機嫌 になったのだった。

主宰選は、〈春近しここが慶應薬学部〉…仲間内でしかわからない面もあるが、 学校の発展するだろうという褒める気分。 〈三門に葵の御紋もう節分〉…「も う節分」が乗った感じ、ひとの言葉、セリフをそのまま句にしている、ガチガ チのレトリックに囚われないと、フッと本音が出る。 〈早梅や木更津にまで 響く鐘〉…「木更津」がいい、具代的な地名を出したこと、それも江戸時代か ら芝居や何やらに登場する土地。 〈囀やよく日の当る墓地の中〉…町中の墓 地に春がやってきて、お彼岸も近い。 〈雪池忌にあと四日なる善福寺〉…地 霊というか土地に対する挨拶の句、息を抜いているが、魂を鎮める感じ。 互 選では、〈木更津〉を貴聖さんが、〈冬うららマンションアニメの城のやう〉を 祐之さんが採ってくれた。

 私が選句したのは、つぎの七句。

節分の仮設舞台の張出しぬ     祐之

受験生らしや線香あげてゆく    祐之

冬麗の東京タワーに仁王立ち    知水

冬日影ペルリの首の泣くごとく   知水

早梅を求めて芝の山歩く      善兵衛

宮大工春にさそわれ口ずさむ    貴聖

冬の日は暗闇坂で傾きぬ      孝治

 主宰の句を一句も採っていないのは、まことに遺憾であった(主宰はこの日 のトップ賞だった、知水さんとともに)。 こんな句を詠まれていた。

吊り撞木ひたと動かず寒日和

  冬の蠅独立自尊居士の墓

犬にもの着せて抱き上げ冬の芝

あとかたもなく公園や名草の芽

宙に根を放てるごとし枯欅

大枯木戦火の痕のなほ著(しる)く