森林太郎墓 ― 2010/07/01 06:57
三鷹市下連雀の禅林寺、鴎外森林太郎と太宰治の墓があり、太宰の桜桃忌で 有名で、場所も承知していたが、入ったことはなかった。 太宰・津島家と斜 め向かい合わせになった鴎外の墓所には、遺書に「余ハ石見人トシテ死セント 欲ス」「アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス」「墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可カラ ズ」「書ハ中村不折ニ委託」とある「森林太郎墓」のほかに、「悪妻」と言われ る妻しげ(茂子)の墓、鴎外の弟篤次郎(劇評家・三木竹二)の墓がある。 篤 次郎の墓の、篤次郎と彫った右左に小さな字で「不律」「兌」とある。 この「兌」 が読めず、何だかわからなかったので、森まゆみさんの『鴎外の坂』(新潮社) を引っくり返して見た。
森鴎外は、大正11(1922)年7月9日に亡くなり、向島の弘福寺に葬られ た。 翌年、関東大震災が起こり、本所、向島の一帯は焼野が原となり、弘福 寺も縮小されたので、墓は禅林寺に移された。 篤次郎の墓も弘福寺にあった ことが、鴎外の死の翌月、弘福寺を尋ねた永井荷風の『断腸亭日乗』8月9日 の項でわかる(『鴎外の坂』70頁)。 「書体にて察するに先生の筆跡なり」。 「不律」は夭折した鴎外の次男、「兌」は「とおる」と読み、これも夭折した篤 次郎の子という(『鴎外の坂』214頁)。 篤次郎の妻久子は再嫁したので入っ ておらず、墓表はやはり鴎外の文字だそうだ。
鴎外の最初の妻、その華麗なる姻戚 ― 2010/07/02 06:50
禅林寺の墓地を歩きながら同行のWさんと雑談、鴎外の最初の妻、登志子の 話になる。 私はその登志子の父親が、福沢が咸臨丸でアメリカに行った時、 同行していたと記憶していた。 帰宅してから、森まゆみさんの『鴎外の坂』 で確認する。 長男於莵を産み、一年ほどで離別した登志子の父は幕臣、深川 の御徒士の出で赤松大三郎則良、長崎海軍伝習所で学び、咸臨丸渡航の時は19 歳、少年士官として参加している。 のちに西周、榎本武揚、林研海(のちの 陸軍軍医総監林紀(つな))、津田真一郎(真道)と一緒にオランダへ留学し、 海軍の知識と造船技術を学び、後年海軍中将になった。
幕末の混乱でオランダから急遽帰国したが、幕府は瓦解、到着したのは上野 戦争の二日後であった。 帰国後、赤松は林紀の妹貞を妻とし、榎本武揚も林 紀の妹多津を妻とした。 西周は林の弟紳六郎を養子とし、林、榎本、赤松、 西は深い姻戚関係を結ぶ。 実は林紀の父は林洞海で、母つるは佐倉順天堂の 佐藤泰然の娘だから、尚中(しょうちゅう・養子…東京下谷→湯島の順天堂病 院創始者)、順(良順…陸軍軍医総監)、董(ただす…林洞海の養子、外務大臣) は、母の兄弟である。 西周は森家と同じ津和野の藩医の子で、森家と親戚筋 に当る。 維新後、いったん慶喜に従って静岡に赴き、沼津兵学校の校長を務 めたことは、昨年の一日史蹟見学会で見てきた。 新政府の要職をつとめなが ら『万国公法』を訳し「明六社」を興した開明的知識人である。 森家が上京 したのも西のすすめで、鴎外と登志子の結婚に際しては、西周が仲人をつとめ た。 中村楼での披露宴には、林紀や榎本武揚も姻戚として出席したという。
一年ほどでの離別について、森まゆみさんは、『鴎外の坂』に鴎外自身が書い たものをいくつか引いている。 その一つ『智恵袋』(明治31年)「つまさだ め」の項。 「政治上財産上の都合、恩義、脅迫、思ふに副(そ)はれぬより の焼け、手当(てあたり)放題、出来心、劣情等」で妻を選んではならない、 会ってよく心を知ってからがよいが、ここに至っても「世間の噂、媒口(なか うどぐち)、乃至誠あれども慮(おもんばかり)足らず栄誉を重んじ性情を軽ず る老父母の勧説は、猶つまさだめの主たる動因とならんとするなり」
三つの憲法草案と常用漢字改定 ― 2010/07/03 06:43
一日史蹟見学会には小泉信三さんの次女妙さんが参加された。 訪ねた中に 小泉家はもちろん、阿部家、松本家など、ご親戚のお墓が多く、どこでも私は 一番最後にお参りしますから、皆様お先にとおっしゃっていた。 30日の日記 で、松本正夫さんのところで、私が資料のリストになかった父松本烝治さんの 名を加えておいたのは、以下の話を書きたいからだった。 松本烝治さんは、 小泉信三さんの姉千さんのご夫君、商法学者、法学博士、1945(昭和20)年 の幣原内閣に、憲法改正担当の国務大臣として入閣、憲法草案(松本試案)を つくった。 しかし、この案は保守的に過ぎるとして、GHQに容れられず、 政府はGHQでマッカーサーの指令の下に作成された新しい憲法草案をやむな く受け入れ、若干の字句の修正を経て、「日本国憲法」の成立を見た。
史蹟見学会で禅林寺の後、山本有三記念館に行ったが、山本有三は戦後、貴 族院勅選議員となり、国語国字問題に取り組み、持論の「ふりがな廃止論」を 展開、漢字を減らして平易に書くことを推進し、新憲法も山本有三案(口語化 草案)に沿って、書き直された。 国語審議会で山本有三は、委員長、常用漢 字主査として熱心に取り組んだ。 国語審議会は、文字改革の必要を検討、漢 字を制限する方向へ進み、昭和21(1946)年11月1850字の当用漢字が発表 された。 山本有三のこれを知ったのは、去年秋のNHK「知る楽」“歴史は眠 らない”、漢和辞典編集者、円満字二郎さんの「戦後日本 漢字事件簿」だった。
福沢諭吉も漢字を制限する意見だった。 当用漢字は、漢字の数を福沢が『文 字之教』でさしあたり必要と推定した「二千か三千」の水準に、ほぼ一致した。 だが、その後の半世紀の日本語の歴史は、福沢が理想としたさらなる漢字の制 限とは、正反対の方向に動いてきている。 それを加速したのが、1980年代に はじまる日本語ワープロ・ソフトの登場で、漢字は「書く」ものでなく、漢字 変換で「出てくる」ものになったからだという。 6月7日に文化審議会が文 部科学大臣に答申した「改定常用漢字表」は、書けなくても出てくればいい字 が増えて、現行1945字から2136字になった。
金原亭馬吉の「夏どろ」 ― 2010/07/04 06:43
6月30日は、第504回の落語研究会だった。 蒸し暑い日で、国立小劇場 に入った時は涼しかったが、省エネだか事業仕分け対策か知らないが、仲入で 冷房を切ったらしく、後半はバカに暑くなった。
「夏どろ」 金原亭 馬吉
「花見小僧」 林家 たい平
「鰻の幇間」 柳家 喜多八
仲入
「鹿政談」 三遊亭 歌武蔵
「白ざつま」 柳家 さん喬
馬吉(うまきち)は、去年の5月に一度「鮑熨斗」を聴いたことがあった。 現・馬生の弟子。 髪の毛が多い、いい男、きちんとしている。 泥棒の噺だ から、浅草寺の賽銭泥の小噺から入ったが、「仁王かぁー」を芝居がからず、軽 く流したのは、考え過ぎの失敗。 もう一つの小噺は、よかった。 高級料理 屋に入った泥棒、五十両を脅し取った後、料理を所望して、鯉の洗いと鯉こく を食う。 帰ろうとするのを呼び止められて、「食い逃げですか?」「いくらだ」 「鯉が時化で、五十両いただきます」、やむなく払って出ると、見張りの手下が 「中の首尾は?」「シーッ、コイが高い」
「夏どろ」に入って、暗闇で泥棒がしゃべっている最中、懐から手拭を出し て、汗を拭いたのは、いただけなかった。 落語研究会のプレッシャーはわか るが、修業、修業。 この噺、だだっ広い空間の感じがしていた。 馬吉は、 長屋の真ん中の部屋に寝ていた自殺願望の大工に、首を吊るとハリが細くて三 軒長屋がつぶれちゃう、と言わせる。 すごんでいた泥棒が、大工の極貧に同 情して、だんだんと金を出していくプロセスが聴かせ所なのだが、ややリアリ ティーに欠けた。 落ちは「おい、ドロボウ、季節の変り目に、もう一度入っ てくんねえ」
たい平の「花見小僧」 ― 2010/07/05 06:42
たい平は、マクラもふらず、「他生の縁」の能書きを言っただけで噺に入った。 意外とシャイなのだろうか、必要以上に横を向いて話す。 「花見小僧」は、 「おせつ徳三郎」から「刀屋」へと続く長い噺の序だ。
お嬢さんのおせつが三十何べんお見合いをしても駄目なわけを、番頭が旦那 に説明している。 虫が付いているからで、相手は店の徳三郎だという。 旦 那は、徳三郎は十一の時、店に来て、おせつとは一緒に寺子屋に通った間柄だ、 と天から信じない。 番頭は、仲がいいのと、いい仲とは違う、小僧の貞吉を 呼んで、去年の三月、おせつに徳三郎、ばあや様と貞吉が向島へ花見に行った 話をさせろと言う。 貞吉が話さなかったら、「主人に隠し立てをする後ろ暗い 奴」と鎌を掛け、忘れたと言ったら、若耄碌だから足に灸を据えると脅し、飴 もかます。 話せば、年に二度のやどり(宿下(やどおり))を月に一度ずつに する、小遣いも余分にやる、と。
たいへんな出入り(差)なので、貞吉は、少し思い出します、となる。 柳 橋へ行くと、徳どんは二階に上って、木綿から結城の着物と博多の帯に着替え た。 向島の三囲(みめぐり)に舟で着いて渡り桟橋を上るとき、「徳よ、怖い よ」と、あのお転婆が言った。 奥の植半さんに上ったら、みんなが徳ドンの ことを「若旦那、いらっしゃい」。 懐石料理を食べて、貞吉は、ばあや様の食 べかけのクワイを食べた。 「えらいな」、と旦那。 貞吉が長命寺の桜餅を買 うお使いに行ってくると、お嬢さんと徳三郎がいなくなって、ばあや様がお酒 を飲んでいる。 お嬢さんの具合が悪くなって、徳ドンが看病しているという。 貞吉が行こうとすると、徳ドンにしか治せない病気だ、と。 一番奥の部屋か ら出て来た二人、手水鉢で手を洗い合い、お嬢さんが「おせつ、と呼んでおく れ」。 ここまで聞いた旦那、「このおしゃべり小僧、宿下は年二度に決まって いるんだ」「ずいぶんと、キュウな話で」
たい平、「笑点」で見ているせいで、もっとうまいのかと思っていた。 大ネ タの筋を追うのに懸命という感じ。 噺を自分の物にして、爆笑させるまでに は、もう少し修業と工夫が必要なようだ。 貞吉が、話を面白くしようと脚色 するのを、旦那が「ありのままに話せ」と繰り返すあたりに、その片鱗は見え るのだから…。
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