その後の福沢と明六社2012/05/30 02:24

以上の経過が、明六社の時代の定説だが、中野目徹さんは新聞『日本』明治 25(1892)年4月9日付の「淡如水、明六社の交」という記事を発見した。 そ れによると、『明六雑誌』の終刊後も明六社の会合が続いていた。 明治16 (1883)年までは、従来通り毎月1日・15日の二回、明治17年からは毎月1 日の一回、開かれている。 明治25年当時(会場は神田橋内三河屋)の参加 者に、加藤弘之、津田真道、西周、杉亨二、神田孝平のほかに、辻新次、世良 太一、菊池大麗、矢田部良吉、箕作嘉吉、津田仙、清水卯三郎の名が見える。  講演後、質問した川崎勝さんによると、『西周日記』にも「明六(社)会」に出 席した記事があるそうだ。 会合は、大正期にまで及んでいるらしい。

 福沢は、これより前の明治12(1879)年に設立された東京学士会院(日本 学士院の前身)の初代会長に選出されたが、翌年退会した。 文部省によって、 この会の設立のために集められたのは、福沢のほか、西周、加藤弘之、神田孝 平、津田真道、中村正直、箕作秋坪で、皆、明六社社員だった。 明六社が、 その母胎、先駆けといわれる。

 中野目徹さんは、明六社の研究として、戸沢行夫『明六社の人々』(築地書館・ 1991)、大久保利謙『明六社』(講談社学術文庫)を挙げ、それらでは福沢諭吉 が中心メンバーとして描かれているとした。 最近、それに強力な反論が現れ たという。 河野有理『明六雑誌の政治思想―阪谷素(ひろし)と「道理」の 挑戦―』(東京大学出版会・2011)で、最年長のメンバーで漢学者・儒学者の 阪谷素を中心とした切り口から『明六雑誌』を読みなおし、福沢は中心ではな いのではないかと見る。 中野目さんは、河野説にも一理あるとして、もう一 度考え直してく必要があると述べた。 (『福澤諭吉年鑑』37(2010年)の研 究文献案内で、山田博雄さんは河野論文の序を、以下のように紹介していた。  「政治が何であり、どのようであるべきか、知識人が何であり、どのようであ るべきかという構想」について、『明六雑誌』寄稿者と福沢との間に「大きな差」 のあったことをいう。寄稿者の中で福沢が例外であるとすれば、もう一人の例 外が、西洋諸国も清国も実際に見たことのなかった、阪谷素。しかし「同時代 の知識人のほぼ大部分」は阪谷のようではなかったか。――との前提で、論が 展開されるだろう。)

 中野目徹さんは最後に、「文明」と「国体」をめぐって、福沢の「国体(ナシ ョナリチ)」は、水戸学の「国体」の万世一系をひっくりかえすものだとして、 馬場辰猪宛の有名な書簡(明治7(1874)年10月12日付)を引いた。 ロン ドンに留学中の弟子には、「真実」を吐露しているだろうと。 「我輩の目的は、 我邦(わがくに)のナショナリチを保護するの赤心のみ」、「旧習の惑溺を一掃 して新らしきエレメントを誘導し、民心の改革をいたし度(たく)、迚(とて) も今の有様にては、外国交際の刺衝に堪不申(たえもうさず)。」