宮地教授の「福澤の脱亜論」(6)「脱亜」の闘いと「修身要領」 ― 2013/09/24 06:40
「日清戦後、福澤の「脱亜」の闘いと「修身要領」」。 福沢は、藩閥政府の 明治14年以来の儒教主義への転換を批判した。 官立学校(帝大を含む)出 身者が、幼児・生徒を教えているので、今から改革しても15年以上かかると する。 その危機意識が明治33(1900)年の「修身要領」につながった。 福 沢は幕末維新期に重要な役割を果たした時の「明るさ」から、危機意識の「暗 さ」に変わった。
「「修身要領」への攻撃」。 明治32年7月の枢密院議事録では、「福沢を如 何に叩くか」が議論されている。 政府の御用新聞『東京日日新聞』では朝比 奈知泉(官僚主導の国家主義を主張)が福沢を攻撃した。 よく読まれた教育 雑誌『教育時論』(豊岡?)は、人民は国家の細胞であるという国家有機体説を 唱え、家族国家の考えを提示した。 帝大哲学教授の井上哲次郎は、わが国は 一つの家族のようなもので、君民一家、忠孝一致の美風があり、服従なしに社 会はもたない、とした。 1900(明治33)年段階で、国民は天皇陛下の下の 国家の一歯車とされ、日本は惨めな敗戦に至ることになる。
宮地正人東大名誉教授は、講演趣旨を「脱亜論は一般に語られているよりも っと大きな文脈の中で理解されるべきだとの試論提起」としたそうだ。 以上、 福沢の「脱亜」は儒教主義からの脱却であり、福沢の明暗、「修身要領」にまで 及んだ講演を聴いて、『福澤諭吉事典』の「日清戦争観」に「福沢は、日本が儒 教主義から脱却することを生涯最大の課題にしたといっても過言ではなく」と あるのを、特筆しておく。
福沢は「脱亜入欧」という語彙は一度も使っていない(2008(平成20)年6 月25日「等々力短信」第988号「『広辞苑』の【福沢諭吉】」に書いた)。 宮 地教授は、他の人が「脱亜」と「入欧」を勝手にくっつけたのが、福沢のレッ テルとして独り歩きした恐ろしい状況だ、と述べた。 宮地教授も触れておら れたが、今日、韓国や中国で、福沢の「脱亜論」が高校教科書に載っている趣 旨の、一部の学者の見解による、日本のアジア侵略の理論的根拠やアジア蔑視 の論と誤解されたまま広まり、朝鮮の近代化を支援し、心を砕いた福沢が大悪 人にされている現状は、まことに嘆かわしい。
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