英語で教育を受けた内村鑑三、新渡戸稲造、岡倉天心2013/10/15 06:41

 夏目漱石の「語学養成法」は、そのあと、現在でも採用できるような「英語 力」低下の改善策を提示するのだが、それはひとまずおいて、太田雄三さんの 講演に戻りたい。 福沢諭吉は、二度目のアメリカ行きで、幕府支給の金で有 らん限りの原書を買って来た。 「大中小の辞書、地理書、歴史等はもちろん、 そのほか法律書、経済書、数学書などもそのとき初めて日本に輸入して、塾の 何十人という生徒にめいめいその版本を持たしてりっぱに修業のできるように したのは、実に無上の便利でした。ソコデその当分十年余もアメリカ出版の学 校読本が日本国中に行われていたのも、畢竟(ひっきょう)わたしが初めて持 って帰ったのが因縁になったことです。その次第は、生徒が初めて塾で学ぶ、 その学んで卒業した者が方々に出て教師になる、教師になれば自分がいままで 学んだものをその学校に用いるのも自然の順序であるから、日本国中に慶應義 塾に用いた原書が流布して広く行なわれたというのも、事の順序はよくわかっ ています。」と『福翁自伝』(「王政維新」の章「義塾次第に繁盛」)にある。

 慶應では、その当時から明治14年頃まで、ほとんどの授業に英書が使われ、 教師は本学の先進生で、訳読、講読が行われたと、須田辰次郎「旧時の義塾」 にあり、同志社では慶應以上に英語を使っており、市原盛宏(教員)によれば 日本人教師も生徒も教室では英語だった(?須田辰次郎「同志社視察の記 第四 回 明治12年10月」)。 明治15(1882)年創立の東京専門学校(早稲田)は、 もっぱら日本語。(日本の学問の独立、「学の独立」)

 クラークの札幌農学校2期生だった内村鑑三は、卒業後も同級生の宮部金吾 (世界的に有名な植物学者)と英語の手紙を往復して、心中の思いを伝えてい る。 新渡戸稲造も同期。 福沢の一世代後の、内村鑑三、新渡戸稲造、岡倉 天心(東京大学一期生)たちは、何から何まで英語で教育を受けた人達で、教 師も外国人、教科書も英語だった。 E・S・モースは、大学予備門では、学生 達が英文の手紙を書く、その方が易しいから、と書いている。 福沢とモース は、お互いを高く評価し、福沢はモースを東京学士会会員に推薦し、モースは 慶應義塾で進化論の講演(明治12年7月11日「変進論(エボリューション)」) をした。 モースは「日本で面会した多数の名士中、福沢氏は、私に活動力も 知能も最もしっかりとしている人の一人だという印象を与えた」(『日本その日 その日』)と述べている。

 6歳でアメリカに留学した津田梅子は、母語が英語になった。 帰国して英 語しかできない、生涯ほとんど英語を使い続けた。 母語になる上限が12歳 だ。 内村鑑三、新渡戸稲造、岡倉天心たちは、英語が母語になる年齢で、教 育を受けた。 その頃、教育を受けたエリート学生は、一種変態の教育を受け、 漢学や日本文化の素養がない。 その新渡戸や内村や岡倉が英文で日本文化を 紹介することになったのは、皮肉である。 新渡戸稲造『武士道』を読んだ外 国人は、その西洋の知識に感心して、日本文化についてはもっと知っているに 違いないと思った。 新渡戸自身は早稲田大学での講演で、「私は和漢の本は知 りませんが」と述べている。 新渡戸の「武士道」についての知識は貧弱で、 B・H・チェンバレンは、『武士道』では日本文化を学べないと、高く評価しな かった。 内村鑑三には、後に『代表的日本人』になった『日本と日本人』、岡 倉天心には『茶の本』がある。

 太田雄三さんの講演で、最も興味深かったのは、上記の話であった。